暑さは描けず、涼みが描かれる——歌麿・円山応挙・ピュヴィスほか九点

暗い絹の上に、丸みのある山が高く積み上がっている。
麓には木々が茂り、谷あいに家並みらしい影がのぞく。
元代の中国の画家、黄公望の筆と伝わる大作である。
題のとおり、五代の画家、董源の山の絵に倣ったと画面に記されている。
倣うという言葉は、東アジアの絵では敬意のしるしである。
館の記録では、薄い墨を重ね、その上から濃い墨を置く描き方だという。
画家自身の画論の言葉も、記録に引かれている。
絵でいちばん難しいのは墨の使い方だ、という一節である。
薄い墨から始めて、様子を見ながら、乾いた濃い墨と深い墨のにじみを重ねる。
その重なりが、田と道を分け、遠くと近くを分けるのだという。
付記には、こうある。
しっとりと濡れた山肌と湿った大気が、中国南方の夏を思わせる。
雨の多い季節の、蒸すような茂りの気配だという。
暑さは描けなくても、湿り気なら墨で描ける。
にじみそのものが、夏の空気の写しになっている。
画面には、後世の持ち主の書き込みも残る。
1599年にこれを手に入れた、と記す明の書家、董其昌の字だという。
翌1600年には、掛け直してあらためて学んだ、とまで書き込んでいる。
二百年以上のちの人が、この夏の山を手本として研究していたのである。
画面に字を書き込む文化の回で見た、東アジアの絵の慣わしである。
ここまでの五点を振り返ると、暑さを正面から描いたものは一点もない。
夜と朝、風と湿り気。
夏は、涼しいものの側から間接に描かれてきた。
暑さを、正面から描いた絵
ここまでの五点は、涼しさの側から夏を描いてきた。
ヨーロッパの版画は、逆を行く。

空に、光の筋を放つ太陽が彫られている。
その下で、農民たちが麦を刈り、束ね、運んでいる。
手前の男は大きな鎌を振り、うつむいた男たちは汗みずくの姿勢である。
下絵を描いたのは、ブリューゲルだと記録にある。
版画商コックの店のために素描を提供し、職人のヘイデンが版に彫った。
コックの店は、四方の風、という名をアントウェルペンに構えていた。
世界の四隅まで版画を売り広める、という心意気の屋号だと記録は説明する。
16世紀半ばには、版画の出版と販売はもう大きな商売だったのである。
四季の組の春と夏はブリューゲル、秋と冬は別の画家ボルの下絵だという。
ブリューゲルはその少し前、一年の月々を描いた一連の絵を仕上げていた。
農民の労働で季節の移ろいを示す、中世の暦絵の伝統に立つ仕事だったとある。
この版画の夏も、その流れの上にある。
画面の下には、ラテン語の句が彫られている。
六月と七月と八月が夏を作る、夏は青春の似姿、と句は始まる。
そして、暑い夏は野に豊かな実りをもたらす、と結ばれるのだと記録は訳す。
暑さが、はっきり言葉になっている。
しかも、実りの原因として、肯定的に書かれている。
そして、直視できないはずの太陽が、堂々と空にある。
太陽の描き方を数えた前の回では、太陽を正面から描いた絵はまれだった。
ここで太陽が描かれたのは、暑さを描くためだと考えられる。
照りつける光がなければ、汗も実りも説明がつかないからである。
同じ麦刈りの夏は、織物にもなっている。

2メートル半四方の、大きなタペストリーである。
羊毛と絹に、金の糸まで織り込まれている。
麦の穂の黄色が、画面の下半分を明るく染める。
下絵は1535年ごろに作られ、織られたのは百年以上のちだという。
パリの王立の工房、ゴブラン製作所の仕事である。
古い図柄が、世紀を越えて織り直されるほど愛されていたことになる。
来歴の欄によれば、この織物はスコットランドの城に掛かっていた時期がある。
館の記録では、麦の刈り入れは7月の仕事で、夏の暑く厳しい労働を代表した。
手前と中ほどの刈り手が、鎌を頭の上まで振り上げている。
林檎の木の陰では、三人が麦の値段を決めている。
女性が銭を指さし、座った男が数え、もう一人が帳面に書き留める。
腰には、ペン入れとインク壺が下がっているとまで記録は書く。
奥では、馬車が麦を山と積んで進む。
働く者と、商う者と、記録する者。
一枚の織物のなかに、夏の村の経済がまるごと織り込まれている。
収穫の絵は、土地の実りへの誇りと、働き手への賛辞でもあったと付記にある。
そしてここでも、涼みは木陰という形でちゃんと描き込まれている。
暑さの絵の中にすら、人は日陰を探して座るのである。
装いの夏と、水辺の夏
暑さは、着るものにも表れる。