注ぐための形——青木木米の急須と銀の器
京都で作られた、白い器

こちらは大ぶりである。高さ16.5センチ。
白い磁器に、青い顔料で絵が描かれている。
胴の中央に人物が群れ、樹と建物が見える。中国風の場面である。
肩と裾には幾何学の帯文が回る。
取っ手は背中に付き、大きな輪を描く。
注ぎ口は長く、先が動物の頭のような形に作られている。
蓋の摘みは細く、上へ伸びる。
つまりこの器は後手で、しかも大きい。
煎茶の小さな急須とは用途が違うのだろう。
複数人に注ぐための器と考えられる。
染付の技法も押さえておきたい。
白い素地に、酸化コバルトを含む顔料で絵を描く。
その上に透明な釉をかけ、高温で一度に焼く。
釉の下に絵があるため、擦れても落ちない。
日用の器に絵を入れる方法として、これほど適した技法はない。
19世紀の京都では、輸出も視野に入れた器が作られていた。
中国風の図柄が選ばれたのは、その市場の好みだったのだろう。
茶が高価だった時代
値段の話も書いておきたい。
18世紀のヨーロッパでは、茶は高価な輸入品だった。
葉を鍵付きの箱に入れて保管する例も知られている。
つまり茶を出すことは、富を示す行為でもあった。
だから道具にも金がかかる。銀の器、磁器の茶碗、専用の卓。
一方、19世紀に入ると茶の価格は下がる。
道具も安い材料で作られるようになる。
器の材質の変化は、飲み物の価格の変化を映している。
銀の器は、重さが記録される
素材を変えてみたい。

銀の器である。
胴は楕円の筒形で、上下に細かい珠の縁飾りが回る。
正面には組み合わせ文字が彫られている。所有者の頭文字である。
注ぎ口はまっすぐ伸び、先が斜めに切られている。
取っ手は木製で、C字に曲がっている。
蓋の摘みは壺の形で、上に立つ。
ここで所蔵館の記録に注目してほしい。
重さが書かれている。600グラム。
さらに、本体と蓋の重さが別に記されている。
本体503グラム、蓋97グラムである。
銀器の重さは、資産である
なぜ重さが記録されるのか。
銀は素材そのものに価値があるからである。
18世紀のアメリカでは、銀の器は貯蓄の一形態でもあった。
必要になれば溶かして換金できる。
だから注文の際も、重さを基準に代金が決まった。
彫られた文字は、所有者を示すためだけではない。
盗難に備えた印でもあった。
つまり銀のティーポットは、道具であり、装飾であり、資産だった。
顔が通貨になる話は別のコラムで扱った。
銀器の場合、金属の重さがそのまま値段に直結している。
取っ手が木製である理由も、機能から説明できる。
銀は熱をよく伝える。湯を入れれば胴も取っ手も熱くなる。
だから取っ手には木を使い、金属との接点を最小にする。
蓋の摘みも同じで、木や象牙が使われることがある。
素材の組み合わせが、そのまま使い勝手を決めている。
美しい器であると同時に、実用の設計がなされている。

同じ時期の、別の作者による銀器である。
形はよく似ている。楕円の筒形の胴、直線的な注ぎ口、木の取っ手。
正面には楯の形の枠が彫られ、中に文字が入る。
蓋の摘みは松笠のような形である。
重さは655.2グラム。先の一点より50グラムほど重い。
寸法もわずかに大きい。
同じ型で、少し材料を増やしたことになる。
同じ形が続く理由も考えておきたい。
銀器は、注文のたびに一から意匠を考えるものではない。
工房が定型を持ち、寸法と装飾だけを注文に合わせる。
彫る文字が違えば、別の家の品になる。
つまり銀器も、規格品に個別の印を入れる商売だった。
肖像画の規格と、考え方が同じである。
形は、時代とともに変わる

40年後の銀器である。
胴は角の付いた形になり、面が八つに分かれている。
面の境に細い稜線が走り、上部には彫りの帯が回る。
正面の枠は装飾が細かく、渦巻きの模様が加わる。
取っ手も銀製で、木の断熱材が二か所に挟まれている。
注ぎ口はまっすぐで、根元に彫りの飾りがある。
つまり19世紀に入ると、面と装飾が増えている。
重さも693.2グラム。徐々に重くなっている。
装飾が増えた背景には、産業の変化がある。
19世紀に入ると、金属の圧延と型打ちの技術が普及した。
手で叩き出す作業が減り、機械で面を作れるようになる。
面が多い形は、機械のほうが作りやすい。
つまり装飾の増加は、趣味の変化だけでなく製造技術の変化でもある。
同じことは家具にも起きていた。
その事情は別のコラムで扱った。