作品を知る

顔は、名前と交換される——英泉・ヴァロットン・アルガルディほか九点

死後に、顔が笑う

掛軸である。

絵の部分は92.4×40.5センチ。

縦に長い。

僧が一人、立っている。

やや斜めを向く。

衣は、黒に近い濃い色である。

裾は、足元まで届く。

袖は、広い。

左手に、丸い器を持つ。

鉢である。

右手に、長い杖を持つ。

杖の先が、頭より高い。

顔は、小さい。

眉は、下がる。

目は、細い。

口元が、わずかに上がる。

頭は、剃られている。

背景は、何も描かれない。

上に、字が長く並ぶ。

律師・大智の肖像
劉燾《律師・大智の肖像》一一〇〇年代。館の記録では、掛軸・絹本墨画淡彩。絵の部分は92.4×40.5センチ。番号は1974.29。クリーヴランド美術館蔵。劉燾《律師・大智の肖像》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この僧の経歴を書いている。

大智律師という尊称を持つ。

ここでは、遍歴の僧として描かれる。

左に鉢、右に杖という姿である。

一一四二年に、皇帝が死後の称号を贈った。

その称号が、上の字の中にある。

だから、この肖像は死後に作られたと考えられる。

律の宗派の師であり、山と町で活動した。

そして、こう書かれている。

穏やかで慈悲深い笑みを、顔に浮かべている。

前の一点と、同じことが起きている。

記録が、顔の中身を読んでいる。

ただしこちらは、死後の肖像である。

描いた人は、この顔を見ていない。

見ていない顔に、笑みが浮かんでいる。

そして記録は、その笑みを事実のように書く。

上の字には、讃の文が書かれている。

館はその一部を訳している。

威儀あり、戒を受けて欠けるところがない、という意味の文である。

顔の評価は、その文の延長にある。

文が先にあり、顔があとから合わせられる。

僧の持ち物については、杖は、地面に触れるで扱った。

器の面を、顔と呼ぶ

磁器の花瓶である。

高さ24.5センチ。

直径12センチ。

胴は、下で膨らむ。

上へ向かって、細くなる。

首は、まっすぐ立つ。

口は、わずかに開く。

下半分は、濃い緑である。

つやが、深い。

上半分は、白い。

そこに、青で文様が描かれる。

葉の唐草が、帯になって回る。

帯の上下に、青い線が一本ずつ入る。

唐草のあいだに、菊が一つずつある。

菊は、面ごとに一つずつ置かれる。

緑と白の境目は、まっすぐである。

唐草文の花瓶
三代清風与平《唐草文の花瓶》1893年から1914年のあいだ。館の記録では、釉下彩と緑釉の磁器。24.5×12センチ。番号は2022.192。クリーヴランド美術館蔵。三代清風与平《唐草文の花瓶》クリーヴランド美術館蔵

館の説明は、この文様の配り方を書いている。

上部は、釉の下に青で葉の唐草が描かれる。

それぞれの面に、菊が一つずつ置かれる。

上下は、青い線で締められる。

英語の記録は、その面を顔と呼ぶ。

器の側面を、そう言う言い方がある。

日本語では、面である。

面には、顔という意味もある。

だから、遠くでつながっている。

館はさらに、箱書きの不一致にも触れる。

箱の蓋には、青の花瓶とだけ書かれる。

下半分の深い緑に、触れていない。

だから箱が別のものかもしれない、という。

この一点に、人の顔は写っていない。

面という語だけが、顔の記録として残っている。

だから機械は、この花瓶を顔の一点として返す。

返ってきたものを見ると、花瓶である。

それでも、九点に入れた。

入れたのは、この語の重なりが偶然ではないからである。

平らな面を顔と呼ぶ言い方は、多くの言語にある。

時計にも、崖にも、貨幣にも使う。

数えてみると

九点を数え直す。

人の顔が画面に写っているのは、八点である。

写っていないのは、花瓶の一点だけである。

八点を、記録の書き方で分ける。

顔の形だけを書いているのが、五点。

顔の中身を読んでいるのが、二点。

顔を数として扱うのが、一点。

顔の形を書いた五点のうち、二点は横顔である。

一点は、顔をゆがめている。

一点は、顔を黒く塗られている。

一点は、顔だけが題になっている。

顔の中身を読んだ二点は、どちらも男である。

そして、どちらも高い位にある。

教皇と、律師である。

位の高い人の顔は、中身まで書かれる。

位のない人の顔は、形だけが書かれる。

記録の量は、顔の造作ではなく、名の重さで決まっている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、顔が名前と交換されるということである。

名があれば、題は名になる。

顔は、その人を指す印にすぎなくなる。

名がなければ、顔そのものが題になる。

美人の顔、左を向いた女の横顔、顔をしかめる若者。

どれも、種類か動作の名である。

そして、名がない顔ほど、記録は短い。

言えないことも、いくつかある。

まず、顔の中身を読んだ二点は、記録の言葉である。

知的とも、慈悲深いとも、こちらには見えない。

見えないものが、記録には書いてある。

その差を埋める手立ては、ない。

次に、死後の肖像に浮かぶ笑みは、誰の顔でもない。

描いた人は、その顔を見ていない。

それでも、笑みが記録された。

顔は、見なくても描ける部分である。

背中がそうであったように、顔もまた置き換えがきく。

最後に、花瓶の面を顔と呼ぶのは、英語の言い方である。

日本語の面にも、顔の意味はある。

しかし、器の面を顔だとは、ふつう感じない。

言葉の上でだけ、つながっている。

九点のうち一点が、そのつながりでここに入った。

顔は、体の中でいちばん特定に使われる部分である。

その顔が、器物にまで及んでいる。

平らな面があれば、それは顔と呼ばれうる。

呼ばれた時点で、その面には正面ができる。

正面ができれば、裏もできる。

顔を決めることは、向きを決めることでもある。

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