作品を知る

山は、七点で無彩色だった——ビッソン・八大山人・チャーチほか九点

山の色は、灰色である

九点で、山の色を見たい。

墨だけで描かれたものが、二点。

黒鉛だけのものが、一点。

インクと淡彩のものが、二点。

木版の白黒が、一点。

写真の白黒が、一点。

色の付いた油彩は、二点しかない。

つまり九点のうち七点で、山は無彩色である。

これは偶然ではないだろう。

山は遠くにあるので、色が薄くなる。

空気の層を通ると、色が抜けて青灰色になる。

だから、色を使わなくても山らしく見える。

墨の絵は、その性質を最初から利用している。

濃い墨で手前、薄い墨で奥を示す。

色を一切使わずに、距離を作れる。

油彩の二点でも、山そのものは暗い色だった。

一点は黒に近い稜線、一点は茶と緑の斜面である。

色が付いているのは、空と手前の岩だけだった。

つまり色は、山ではなく光に使われている。

山を描くとき、色はそれほど要らない。

要るのは、濃さの段である。

館の記録は、使われた絵具や墨の名を書く。

その欄を読むだけで、その画面が何色かはだいたい分かる。

数え直す

九点を並べ直したい。

山が画面の上端まで届くのは、四点。

山が背景の帯になっているのは、二点。

中腹から見下ろす形が、三点である。

人が描かれているのは、五点。

そのうち、山を登っている人は一人もいない。

麓を歩く人、橋を渡る人、岩の上で祈る人。

いずれも、山と関わりながら登ってはいない。

雪が描かれているのは、一点だけだった。

写真の一点である。

山の絵には、たいてい水がある

もう一つ、数えておきたいことがある。

九点のうち、水が描かれているのは五点だった。

掛幅の二点には、川か池がある。

素描帖の一葉には、入江がある。

小さな油彩には、細い流れがある。

写真の一点は、氷である。

氷も、固まった水ではある。

山と水が組で描かれるのは、理由がある。

水は高いところから低いところへ流れる。

その流れが、高低差を目に見える形にする。

そして、水があると人が住める。

だから麓には集落ができ、道ができ、橋が架かる。

掛幅の一点では、水の上に橋があり、その上に人がいた。

山の絵に人を入れるなら、水辺に置くのが自然である。

東アジアの絵では、山と水を合わせた語が絵の種類の名になっている。

山水という語である。

その語は、今回の題にも使われていた。

つまり、山と水は分けずに一つの主題として扱われてきた。

ヨーロッパの絵では、山と水は別の語である。

だが画面では、やはり組で現れる。

九点のうち五点という数字が、それを示している。

山の高さは、どう示されるか

山の高さを示す方法を、九点で見たい。

三つの方法があった。

一つは、画面の上端で切ることである。

上が切れていれば、その先があると読める。

掛幅の二点が、その形をとる。

二つ目は、人や木を小さく描くことである。

麓に小さな人を置けば、山は大きく見える。

素描の二点と、掛幅の一点がこれにあたる。

三つ目は、雲や霧を途中に置くことである。

雲より上に峰があれば、その高さが分かる。

油彩の一点で、その処理が使われていた。

写真の一点は、そのどれも使っていない。

上も切れておらず、人も木もなく、雲も途中にない。

代わりに、雪と氷の面が広がる。

高さは、雪があることで示されている。

雪は、一定の高さより上にしか残らないからである。

これは、写真にしかできない示し方かもしれない。

館の記述は、その高さを数字で書いていた。

四千メートルを超える、と。

九点で、山の高さが数字で書かれているのは、この一点だけである。

掛幅は、山と同じ形をしている

判型を並べておきたい。

九点のうち、縦長が四点、横長が五点である。

縦長の四点は、いずれも山が主役の画面だった。

掛幅が二点、木版が一点、油彩が一点。

横長の五点では、山は背景か、横に連なる稜線である。

この分かれ方は、山の形と関係がある。

一つの峰を描くなら、縦になる。

連なる山脈を描くなら、横になる。

そして、東アジアの掛幅はとくに縦に長い。

軸端まで含めて二メートル半という一点があった。

画面だけでも一メートル十センチある。

壁に掛けて、上から下まで目で辿る。

その動きが、山を登る動きに似ている。

下に木と岩、中ほどに人と橋、上に峰。

見る順序が、そのまま高さの順序になっている。

これは、掛幅という形式がもたらす効果である。

横長の画面では、この順序が作れない。

記録は、山の名を書くとは限らない

最後に、記録の欄を確かめておきたい。

九点のうち、山の名が題に入っているのは三点だった。

写真の一点、木版の一点、そして素描の一点である。

残る六点では、山に名がない。

《山峡の秋》、《山中の嵐》、《人物のいる山の風景》。

いずれも、どこの山か分からない。

無題の一点に至っては、説明の括弧だけである。

山は、名がなくても山として通る。

前に家と道と港でも、同じことを書いた。

名のない場所は、風景として扱われる。

ただし山には、一つ違いがある。

名がなくても、形で特定できることがある。

有名な山なら、輪郭だけで分かる。

九点のなかに、そういう山はなかった。

いずれも、輪郭からは特定できない。

そして館も、特定しようとしていない。

書かれているのは、題と材と寸法と番号である。

その素っ気なさが、かえって扱いやすい。

分からないものを、分からないまま並べられるからである。

山の名を特定しようとすれば、絵の外の資料が要る。

地形図、旅の記録、同じ画家の他の作品。

そこまで踏み込むのは、当社の仕事ではない。

当社が書けるのは、画面に見えることと、記録に書かれたことである。

今回も、その範囲で九点を並べた。

数えたのは、見る位置、山の色、水の有無、高さの示し方。

いずれも、画像を見れば誰でも数え直せることである。

数え直せることだけを書く。

それが、この連載の方法である。

山の絵では、その方法がとくに効く。

山は大きすぎて、一目では捉えられないからである。

捉えられないものを、部分ごとに数える。

数えた部分を並べると、全体の輪郭がぼんやり見えてくる。

九点で見えたのは、その輪郭の一部である。

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