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岩は、輪郭でしか描けない——ウィード・八大山人・デュゲほか九点

ブレイス・ロック、イースタン・ポイント、グロスター
フィッツ・ヘンリー・レーン《ブレイス・ロック、イースタン・ポイント、グロスター》1864年頃。館の記録では、油彩・カンヴァス。全体25.4×38.1センチ。番号は2025.89.14。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。フィッツ・ヘンリー・レーン《ブレイス・ロック、イースタン・ポイント、グロスター》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

三点目は、素描である。

紙は13.4×17.2センチ、画面は11.2×15.4センチ。

こちらも小さい。

画面の右に、大きな岩が立つ。

岩は縦に長く、上が尖っている。

表面には、鋭い割れ目が刻まれる。

その足もとに、小さな岩がいくつか転がる。

中央から左は、水面である。

水の上に、帆を張った舟が二艘いる。

奥には、低い町並みと塔が見える。

インクの濃淡で、明暗が作られている。

館の記録によれば、右下に署名の頭文字がある。

そして裏には、鉛筆の書き込みがある。

その内容は、記号と数字である。

館は、それも記録している。

漁船のいる岩場の入江
アラールト・ファン・エーフェルディンゲン《漁船のいる岩場の入江》1650年代後半。館の記録では、ペンと茶と黒のインク、筆と灰と黒の淡彩。紙は13.4×17.2センチ。画面11.2×15.4センチ。番号は1980.70。クリーヴランド美術館蔵。アラールト・ファン・エーフェルディンゲン《漁船のいる岩場の入江》クリーヴランド美術館蔵

東アジアの岩

東アジアの二点では、岩の扱いが違う。

一点目は、掛幅である。

画面は79.2×32.7センチ。

軸端まで含めると163.9×52センチになる。

縦に細長い。

画面の下のほうに、岩が一つある。

岩は輪郭線で描かれ、内側は薄い墨である。

形は不規則で、丸みと角が混ざる。

その岩から、細い葉が何本も伸びる。

蘭の葉である。

葉は長く、弧を描いて垂れる。

上のほうには、竹の枝が斜めに伸びる。

竹の葉は、鋭い形で数枚ずつ付く。

画面の上には、書き込みがある。

墨だけで、色は一切ない。

岩は、植物を載せる台として置かれている。

つまり、岩そのものが主役ではない。

岩と竹と蘭
玉畹梵芳《岩と竹と蘭》十四世紀末から十五世紀初め。館の記録では、掛幅。紙に墨。画面79.2×32.7センチ。軸端を含めて163.9×52センチ。番号は1972.15。クリーヴランド美術館蔵。玉畹梵芳《岩と竹と蘭》クリーヴランド美術館蔵

二点目は、巻子である。

画面は29.6×158.4センチ。

横に長い。

高さは三十センチしかない。

画面の左に、書き込みがある。

その右に、岩が描かれる。

岩は薄い墨のにじみでできている。

輪郭線はほとんどない。

その周りに、魚が二匹いる。

魚は上を向いて泳いでいる。

体は太く、尾が跳ねる。

水は描かれていない。

紙の地が、そのまま水になっている。

館の記述によれば、この画家の魚はしばしば上を見ている。

そして、空間の定まらない水の中を泳ぐという。

館はさらに、この画家が明の王族だったことにも触れる。

王朝が倒れ、身分を失い、寺に隠れた。

魚は、その境遇を映しているのかもしれない、と館は書く。

館の記録には、詩の訳も載っている。

天まで一尺五寸、白い雲が流れるのが見える。

なぜ黄色い花を描くのか。

雲のあいだに、黄金の城があるからだ。

そういう内容である。

魚と岩
八大山人《魚と岩》十七世紀半ばから後半。館の記録では、巻子。紙に墨。画面29.6×158.4センチ。番号は1953.247。クリーヴランド美術館蔵。八大山人《魚と岩》クリーヴランド美術館蔵

崖の素描

最後の一点は、素描帖の一葉である。

紙は12.1×19.7センチ。

黒鉛だけで、薄く描かれている。

画面の左に、細い木が数本立つ。

その根もとから、斜めの線が下りていく。

崖の面らしい。

線は数本しかなく、面としては描かれていない。

下のほうには、水平の線がある。

館の記録の題によれば、樹々のある崖である。

この帖からは、これで八枚目になる。

からまで、七つの回で取り上げた。

同じ一冊が、八つの番号で公開されている。

樹々のある崖(スケッチブックより)
アルバート・ビアスタット《樹々のある崖(スケッチブックより)》1890年。館の記録では、網目紙に黒鉛。12.1×19.7センチ。番号は1995.379.4ww裏。メトロポリタン美術館蔵。アルバート・ビアスタット《樹々のある崖(スケッチブックより)》メトロポリタン美術館蔵

水と岩は、組で現れる

九点のうち六点で、岩のそばに水があった。

海が三点、川が一点、湖が一点、水面の不明な一点。

これは偶然ではないだろう。

水は岩を削り、岩は水を止める。

その二つが接する場所に、はっきりした形ができる。

砂浜なら、境目は曖昧である。

岩場なら、境目が線として見える。

絵にとって、その線は使いやすい。

そして、水は岩を映す。

九点のうち二点で、映り込みが描かれていた。

写真の一点と、油彩の一点である。

写真のほうは、映り込みが題にまで入っている。

館の記録の題に、その語がある。

つまり、映り込みが主題の一部として扱われている。

映り込みは、水が静かなときにしか起きない。

海辺の岩では、波が立って映らない。

湖の岩なら、映る。

九点でも、映っていたのは湖の一点だけだった。

もう一点の油彩では、空の色が水面に映っている。

岩そのものは映っていない。

岩が水から離れて立っているためである。

岩の大きさは、どう示されるか

岩の大きさを示す方法を、九点で見たい。

人を置くのが、二点。

木を置くのが、四点。

舟を置くのが、二点。

何も置かないのが、一点である。

人を置いた二点では、岩は人の何倍かで測れる。

狩人のいる油彩では、岩は人の五倍ほどある。

木を置いた四点では、木の高さが基準になる。

写真の一点では、針葉樹が岩の三分の一ほどの高さに見える。

つまり、岩は木の三倍ある。

木の高さを二十メートルとすれば、岩は六十メートルほどになる。

もちろん、これは目分量である。

舟を置いた二点では、舟の長さが基準になる。

舟が五メートルなら、岩はその四倍か五倍だろう。

何も置かない一点は、東アジアの掛幅だった。

そこでは、岩は蘭の葉より少し大きいだけである。

つまり、手のひらに載るほどの石かもしれない。

同じ岩の語でも、大きさが千倍以上違う。

館の記録には、その区別が書かれていない。

読めるのは、画面に置かれたものとの比からだけである。