空は、塗るか、残すか——ブーダン・池大雅・ルドンほか九点
晴れていく空
日本の屏風を見たい。
二曲一隻で、画面は163.2×182.6センチ。
九点のなかで、いちばん大きい。
地は紙で、墨だけで描かれている。
画面の左右に、竹が生えている。
竹は細く、葉が上のほうに広がる。
中央には、岩の塊がある。
岩は輪郭線で描かれ、内側は薄い。
その奥に、山と川が霞んで見える。
さらに奥、右のほうに、小さな家並みがある。
手前には、平らな岩がある。
館の記述によれば、その岩は見る人を画面へ招く。
そして、この題は雨の後の景色と気分を示すという。
雨で満ちた川が、山から流れ下る。
竹のあいだに、村がある。
館の記録によれば、題は画家自身が書き付けている。
印も二つ、各扇に押されている。
つまり、空という語は題にあるが、画面の空は白い紙である。
雲も、青も描かれていない。
晴れていく、という状態が、余白として示されている。

空が、ほとんど見えない三点
空の狭い三点を見たい。
一点目は、版画である。
紙は20.9×17.1センチ。
縦長の画面で、全体が暗い。
左右に、細い木が立ち並ぶ。
枝と葉は、無数の細かい線で描かれる。
その線が、画面のほとんどを埋める。
中央の上のほうだけが、明るい。
木のあいだから、空が見えている。
だが、その面積は画面の十分の一もない。
下のほうには、水面と、牛らしい影がある。
館の記録によれば、これは特殊な技法で作られている。
ガラスの板に絵を描き、それを陰画として印画紙に焼く。
つまり、版画と写真の中間にあたる方法である。
そして館は、原版が1862年、この刷りが1921年と書いている。
六十年近く後に刷られたことになる。

二点目は、素描帖の一葉である。
紙は12.1×19.7センチ。
黒鉛が薄く、画像ではほとんど読めない。
上のほうに、水平の線が一本ある。
その上に、短い縦線が数本立つ。
館の記録の題によれば、空と山の素描である。
つまり、空を描いた素描である。
だが、線がないので空が空として見えない。
紙が白いことと、空が白いことの区別がつかない。
この帖からは、これで九枚目になる。
同じ一冊が、九つの番号で公開されている。

名前の一致で入った二点
三点目と、最後の一点が外れである。
一点は、写真である。
画面は19.3×13.5センチ。
画面の中央に、人が一人立っている。
上半身は裸に近く、飾りの付いた帯を胸に巻く。
下は、幅の広い薄い衣である。
左腕を高く上げ、右腕を横へ伸ばす。
顔は上を向き、目を閉じている。
背景は、灰色の霞である。
雲のようにも、幕のようにも見える。
床は見えず、足もとが宙に浮いて見える。
館の記録の題は、ある舞台作品と、踊り手の名である。
その名の綴りに、空を意味する語が入っている。
背景が空に見えるのは、偶然である。
写真館の幕を、そう撮っただけだろう。

もう一点は、磁器である。
全体で高さ9.6センチ。
二つで一組になっている。
台は白く、渦を巻いた形をしている。
その上に、浅い鉢が載る。
鉢の縁は波打っている。
表面には、小さな花と実が描かれる。
赤、黄、緑の色である。
館の記録の題によれば、これは塩を入れる器である。
ある食器の組物の一部だという。
その組物の名に、一族の姓が使われている。
そして、その姓の綴りに空を意味する語が入る。
館の記録には、工房の名と、原型を作った人の名がある。
空とは、まったく関係がない。

地平線を、どこに引くか
空の広さは、地平線の高さで決まる。
九点で、その位置を見たい。
画面の下から四分の一のところに引くのが、二点。
三分の一のところが、二点。
半分のところが、一点。
地平線がないのが、四点である。
低い位置に引くほど、空が広くなる。
パステルの一点では、線が下から四分の一にあった。
だから空が四分の三を占める。
これは、当時の風景画では新しい配分だったと思われる。
それ以前は、地面を広く取るのが普通だった。
前に扱った十七世紀の風景画では、空は半分ほどだった。
十九世紀に入って、空の比率が上がっている。
九点だけでは確かめられないが、そういう流れがある。
地平線のない四点では、空の広さが測れない。
顔だけの石版画、竹の屏風、素描、そして写真である。
いずれも、地面が描かれていない。
地面がなければ、空も空として成立しない。
にもかかわらず、そこが空に見えることがある。
写真の背景の霞が、その例である。
館の記録は、それを空とは呼んでいない。
呼んでいるのは、こちらの目のほうである。