作品を知る

窓の外は、三点しか見えない——ルグロ・レンブラント・モリゾほか九点

桟は、何本描かれているか

窓には、必ず桟がある。

ガラスを支えるための細い骨である。

九点で、桟の本数を見たい。

はっきり数えられるのは、四点だった。

最初の銅版画は、縦一本と横二本。

合わせて三本の桟が、大きな四角を六つに割る。

写真の窓は、細かい格子である。

縦横に何本も走り、正方形が並ぶ。

数えれば二十を超える。

ガラスの窓は、模様そのものが桟でできている。

鉛の線が、直線と四角を作る。

ここでは桟が装飾になっている。

自画像の窓は、枠だけが見える。

桟は影に沈んでいて、本数が分からない。

桟の数が多いほど、窓は近くに感じられる。

細かい格子が目の前にあると、その向こうは遠くなる。

逆に、桟のない大きな開口は、外と直接つながって見える。

ナポリの絵の開口には、桟が描かれていない。

だから、あの海と山は近く見える。

桟は、距離を作るための線でもある。

館の記録は、桟について何も書かない。

書かれるのは、作品の外側の寸法だけである。

窓の内側の割り方は、画像を見るしかない。

数え直す

九点を、もう一度並べる。

窓の外の景色が見えるのは、三点。

窓辺に人がいるのは、六点。

そのうち外を見ているのは、二点。

窓が物として扱われているのは、二点。

窓の格子や桟が細かく描かれているのは、五点。

そして、窓の向きが分かるのは何点か。

東か西か、南か北か。

九点のうち、一点も分からない。

記録にも書かれていない。

ナポリの絵では、海と山の位置から向きを推測できる。

だがそれは、絵の外の知識による推測である。

画面そのものは、方角を持たない。

窓は光の入り口だが、どの方角の光かは言えない。

言えるのは、光が来る側と、来ない側があることだけである。

窓のある画面は、縦に長い

寸法の欄を並べていて、一つ気づいたことがある。

九点のうち八点が、縦のほうが長い。

横のほうが長いのは、一点だけだった。

その一点は、素描の裏面である。

つまり、絵として構成された八点は、すべて縦長になっている。

数字で見ておきたい。

ガラスの窓は105.1×28.5センチ。

縦が横の三倍以上ある。

細密画の画面は12.5×7.8センチ。

こちらも縦が一.六倍ある。

油彩は46.8×33.5センチ。

水彩は28.6×22.9センチ。

写真の画面は20.3×15.4センチ。

リトグラフは20.2×14.3センチ。

自画像の版は15.6×13センチ。

いずれも、縦が横より長い。

理由は、窓の形にあると思われる。

人が通れる高さの窓は、たいてい縦に長い。

その窓を画面に入れると、画面も縦になる。

横長の画面に縦長の窓を置くと、左右が余る。

余った左右には、壁を描くしかない。

壁は、あまり面白い面ではない。

だから縦の画面が選ばれやすい。

これは、そう考えると筋が通る、という程度の話である。

館の記録は、判型を選んだ理由を書かない。

書かれているのは、結果としての寸法だけである。

そして横長の一点は、絵ではなく記録の紙だった。

紙は38.9×48.9センチ。

窓の形を何個も並べるには、横長のほうが都合がよい。

同じ窓でも、描く目的が変われば紙の向きも変わる。

窓は、枠として働いている

数えた結果から言えることを、一つにまとめたい。

窓は、外を見せるための穴ではなかった。

九点のうち六点で、外は描かれていない。

窓が果たしていたのは、枠の役である。

画面のなかに、もう一つの四角を作る。

その四角の内と外で、明るさを変える。

すると、画面に段ができる。

段があると、奥行きが読める。

人はその段の上に置かれる。

だから窓辺の人は、外を見ていなくてもよい。

窓の前に立っているだけで、画面が構成される。

これは、記録から出てくる話ではない。

九点の画像を見て、数えたことから出てくる話である。

別の九点を選べば、比率は変わるだろう。

とくに、窓の外を主題にした絵ばかりを集めれば、逆の結果が出る。

ここで言えるのは、題に窓の語を持つ作品を無作為に近い形で集めると、外を描かないものが多かった、ということである。

記録は、窓を書かない

窓のある絵を見るとき、まず枠を探すとよい。

枠の内側と外側で、明るさがどう違うか。

その差が、その絵の奥行きを決めている。

差がなければ、窓は模様になる。

差が大きければ、窓は穴になる。

九点は、その両端のあいだに散らばっていた。

穴に近いのが、ナポリの油彩である。

模様に近いのが、鉛でつないだガラスの窓である。

同じ窓という語が、両端を結んでいる。

最後に、記録の欄を確かめておく。

九点の記録に、窓についての欄はない。

書かれているのは、技法と寸法と番号と出所である。

窓が開いているか閉じているかは、書かれない。

格子の有無も、光の向きも書かれない。

例外は、題そのものである。

題に窓の語があるから、この九点は集まった。

言い換えれば、記録が窓について語るのは題だけである。

そして題は、必ずしも画面と一致しない。

《窓辺の夕暮れ》の画面から、夕暮れは読み取れない。

《窓辺にて》の画面では、窓の内外が決められない。

《窓と付柱の素描》の画面では、線がほとんど見えない。

題は、窓があることを保証しない。

保証するのは、その作品が窓の語で呼ばれてきた、ということだけである。

呼び名は、館が付けたものもある。

作者が付けたものもある。

記録は、その区別まで書いていないことが多い。

だから題を手がかりに集めるときは、外れが混じる前提で数えるほうがよい。

今回の九点で、いちばん驚いたのは素描の裏面である。

題には、はっきり窓と書いてある。

しかし画像には、窓の形がほとんど見えない。

黒鉛の線が薄すぎるためである。

館は、それでも公開している。

読めない書き込みまで、読めないまま記録している。

題と画像が食い違うとき、記録は題を残す。

画像のほうを直したりはしない。

その姿勢は、公開データを使う側にとってありがたい。

食い違いが、そのまま資料になるからである。

今回は、外れも含めて九点である。

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