同じ椅子が、二脚並んでいる——ダンカン・ファイフ父子商会ほか九脚
枝番の有無が、示すこと
九点の番号を並べてみたい。
二〇一三・二二の一と二。
二〇〇九・二二六の三と四。
一九九五・一五〇の二と三。
二〇一四・五三〇の一の一。
二〇一二・二一七の二。
一九九四・四一〇。
最後の一点だけ、枝がない。
残りの八点には、枝がある。
枝があるということは、同じ受入に他のものがあったということである。
家具は、揃いで買われ、揃いで伝えられる。
そして、揃いのまま館へ入ることが多い。
だから、枝番が付く。
前の回までに見てきた形式と、比べてみたい。
写生帖は、一冊が頁に分かれて枝番を持った。
画帖は、一冊が枝番の範囲で示された。
祭壇画は、三枚が枝番のa、b、cになった。
家具では、同じものが複数あるから枝番になる。
同じ枝番でも、意味が違う。
一方は、一つのものを分けた結果。
他方は、同じものが複数ある結果。
寸法の測り方が、そろっていない
九点の寸法の欄を見比べると、測り方が三通りある。
高さと幅と奥行きの三つを書くもの。六点。
座面の高さなど五つの項目を書くもの。二点。
三つの数字だが、順序が違うもの。一点。
同じ「椅子」という分類のなかで、測り方がそろっていない。
これは、記入した時期の差だろう。
受入年は、一九九四年から二〇一四年まで。
二十年の幅がある。
そのあいだに、測り方の方針が変わったのかもしれない。
そして、項目が多いほうが情報は豊かである。
座面の高さと、背もたれの高さは別の数字である。
高さだけでは、どちらか分からない。
五つに分けて測れば、椅子の形がかなり具体的に分かる。
もっとも、比べるのは難しくなる。
九点の高さを並べようとしても、測っている場所が違う。
細かくすれば正確になり、そろえれば比べやすくなる。
その両立は、なかなか難しい。
二脚を、なぜ二件にするか
カップと受皿は、二つで一件だった。
椅子は、二脚で二件である。
違いはどこにあるか。
カップと受皿は、機能が違う。
一方は飲むため、他方は載せるため。
離すと、使えない。
椅子は、二脚とも同じ機能である。
一脚だけでも座れる。
つまり、独立して使える。
独立して使えるものは、独立した件になる。
これは、ここまで何度も出てきた原則の変形である。
物として分かれていて、しかも単独で成立するなら、件も分かれる。
物として分かれていても、単独で成立しないなら、一件にまとめる。
三幅対の掛軸は、一幅ずつ掛けられるので、三件だった。
六曲一双の屏風は、絵が続いているので、一件だった。
同じ考え方が、家具にも当てはまる。
出所の行に、交換という語がある
ファイフ父子商会の二脚の出所の行に、変わった語がある。
「購入、ブレッター氏夫妻の寄付により、交換によって、二〇一三年」。
交換とは、館が持っていた別の作品を手放して得た、という意味である。
前の回にも、この語を見た。
中国絵画の扇の一件に、同じ書き方があった。
つまり、館は所蔵品を入れ替えることがある。
同じ寄付金を使い、より適切な作品と取り替える。
そして、その経緯を出所の行に残す。
他の八点の出所は、寄贈か購入である。
「ニューヨーク市博物館の寄贈」というものもある。
館から館へ移った例である。
そして「開館百二十五周年を記念して」という一句が入った寄贈もある。
出所の行は、短い一文のなかにいろいろなことを詰め込む。
誰が、どういう資金で、どういう機会に。
前の回までに、この欄を何度も読んできた。
作品そのものについては、何も語らない欄である。
それでも、その作品がどうやってここに来たかを教えてくれる。
揃いは、必ず欠ける
三十回にわたって、束や組から離れた一点を見てきた。
写生帖の一頁。画帖の一葉。散逸した写本の一葉。
三枚続の一枚。揃物の一枚。祭壇画の断片。屏風の一面。
そして、揃いの椅子の一脚。
いずれも、もとは何かの一部だった。
そして、いまは一件として数えられている。
数え方は、分野によって違った。
面ごとに数えるもの。一冊で数えるもの。組でまとめるもの。
読点で番号をつなぐもの。枝番の範囲で示すもの。
しかし、共通していることが一つある。
どの記録も、失われたものを消していない。
「三枚続のうち左の一枚」と書く。
「散逸した写本の一葉」と書く。
「十幅一組のうちの五幅の一つ」と書く。
「六曲一双」と書き、二つの番号を読点でつなぐ。
そして家具では、枝番が残る。
一と二があれば、三があったかもしれないと分かる。
百五十年で、椅子は変わったか
九点を古い順に並べてみたい。
一七四五年ごろ。一八四一年。一八五三年。一八七〇年ごろ。
一八七九年。一八八一年から八二年。
百四十年ほどの幅がある。
いちばん古い一脚は、藺草の座面である。
布を張っていない。
木も、身近な楓である。
装飾は、背もたれの板の形だけである。
十九世紀のものは、どれも布を張っている。
そして、輸入された高い木を使い、彫刻や象嵌を施している。
金箔を置いたものもある。
つまり、椅子は装飾の対象になっていった。
家具が、家の格を示す品になったからだろう。
前の回に見た揃いの食器と、同じ流れである。
そして、高さの数字を比べると、大きな変化はない。
九一・四センチ、八二・六センチ、九二・七センチ。
肘掛け椅子だけが一三九・七センチと高い。
座るための寸法は、変わらない。
変わったのは、そのまわりの装飾である。
身体に触れる部分は変わらず、目に触れる部分が変わる。
記録が、無いものを指し続ける
一点という単位は、いまここにある物の数である。
作られたときの数でも、使われていたときの数でもない。
その差を埋めるのが、記録の欄である。
分類の欄、技法の欄、題の括弧、番号の枝。
これらが、いま無いものを指している。
そして、指しているかぎり、いつか照合できる。
別の館にある残りの一枚と、結び付けられるかもしれない。
前の回にも書いたとおり、物として戻すことはできない。
記録の上でだけ、組は戻る。
だから、記録は書き換えられ続ける。
新しい一枚が見つかれば、欄が変わる。
いま読んでいる記録は、現時点での理解である。
三十回を通して見てきたのは、その理解の形そのものだった。










