顔だけを、大きく描く——喜多川歌麿の大首絵
生活の場面
もうひとつ、彼が繰り返し描いた主題がある。母と子である。

木の盥に赤ん坊が入れられ、女が片手で支えている。赤ん坊は口に手を当て、湯に浸かっている。
上方には干された着物が下がり、右奥にもう一人の脚が見える。
美化された場面ではない。女の袖はまくり上げられ、足は下駄を履いたままである。

伝説を題材にした シリーズ でも、同じ関係が描かれる。
山に住むという山姥と、その子として育てられた金太郎。ここでは大首絵の判型で、母と子の顔が並んでいる。
金太郎は赤い肌に描かれ、白い面を顔に当てて遊んでいる。山姥は髪を垂らし、目を細めて見ている。
怪異譚の登場人物でありながら、画面は完全に日常の母子である。
筆で描いた絵
版画だけの人でもなかった。

絹に直接描いた掛軸も残っている。
立つ女と坐る女。市松の着物と、鶴の文様の羽織。上部には漢詩が書かれている。
版画と違い、輪郭線は筆の運びのまま揺れている。彫師の手を通さない線である。
こうした肉筆画は、版画よりはるかに高価な注文品だった。同じ画家の作品でも、値段の桁が違う。
最後の数年
歌麿の晩年は、良いものではなかった。
1804年、豊臣秀吉を題材にした錦絵が咎められ、手鎖の刑を受けたと伝えられる。
武家の故事を町の版画で扱ったことが問題とされた、という説明が一般的である。ただし、経緯の細部には不明な点が残る。
その二年後、1806年に没した。五十代前半である。
版元の蔦屋重三郎は、それより早く1797年に亡くなっている。
歌麿の絶頂期は、この版元と組んでいた十年ほどに重なる。企画を立て、金をかけ、売り方を作る人がいなくなったあと、仕事の質が落ちたという評価は当時からあったらしい。
絵師ひとりの才能で成立していたわけではない、ということでもある。彫師と摺師と版元が揃って、はじめてあの画面が出てくる。
分業の内訳については、広重のコラムで詳しく扱っている。
見立て——顔を売る、という発明
ここからは書き手の見方である。
歌麿がやったことを一言でいえば、顔を独立した商品にしたことだと考えたい。
それ以前、顔は場面の一部だった。誰が、どこで、何をしているか。その全体で絵ができていた。
彼は場面を取り去り、顔だけを残した。すると、顔そのものが見る対象になる。
これは近代の広告や写真がやっていることと、構造としてよく似ている。人物を背景から切り離し、顔を大きく見せる。
そして、その顔には二つの読まれ方が同居していた。
ひとつは類型としての読み方。「こういう性質の女」という人相見の枠組みである。
もうひとつは個人としての読み方。「あの茶屋のおきた」という固有名詞である。
型として見せながら、個人として売る。この二重性が、彼の仕事の中心にあったと読むこともできる。
もっとも、歌麿自身がそう考えていたと示す記録はない。ここは解釈として受け取ってほしい。
もうひとつ、書いておきたいことがある。
彼が描いた女性たちの多くは、記録の上では名前しか残っていない。茶屋の娘、煎餅屋の娘、遊女。
どんな人だったのか、何を考えていたのかは、ほとんど分からない。分かるのは、歌麿が描いた顔だけである。
そして、その顔は本人に似ていたのかどうかも確かめようがない。写真がないからだ。
役者絵では似顔が求められたが、美人画ではその要求が弱い。同じ画家が描けば、おきたもおひさも似た顔になる。
つまり私たちが「歌麿の描いた美人」として見ているのは、実在の誰かの顔であると同時に、歌麿の様式そのものでもある。
この曖昧さは、欠点ではないと考えたい。むしろ、当時の見る側もそれを承知で買っていたのだろう。誰の顔でもあり、誰の顔でもない。そういう商品だった。
暮らしへ——顔の大きさを、意識してみる
最後に、見方の提案をひとつ。
人物の絵や写真を見るとき、画面に占める顔の割合を測ってみてほしい。
顔が画面の三分の一を超えていれば、それは「その人」を見せる絵である。十分の一以下なら、その人は場面の一部である。
この比率だけで、絵が何を主題にしているかがかなり分かる。
同じことは、いま手元にある画像にも当てはまる。証明写真、雑誌の表紙、SNSのアイコン。顔の大きさは、いつも意図的に決められている。
歌麿が二百三十年前にやった判断を、私たちは毎日繰り返している。
飾るなら、大首絵は一枚だけを目の高さに掛けるのがよい。顔の大きな絵を並べると、視線がぶつかって落ち着かない。
紙の作品なので、直射日光は避けたい。飾る場所と光についてはこちらのコラムで扱っている。







