顔だけを、大きく描く——喜多川歌麿の大首絵
喜多川歌麿は、顔を紙いっぱいに描いた。全身像が主流だった美人画で、なぜ首から上を選んだのか。人相を読む流行、名を書き込まれた実在の女性、雲母を撒いた背景、そして名前を消させた出版統制まで。公開作品八点で、大首絵という発明の中身を確かめる。

顔が、紙いっぱいにある
一枚の版画から始めたい。

若い女が、ガラスの玩具を口に当てている。ポッピンという、息を吹き込むと底の膜が鳴る硝子細工である。
顔は画面の中央上寄りに、大きく置かれている。頭のてっぺんから顎まで、画面の高さの三分の一近くを占める。
髪は結い上げられ、櫛と簪が挿してある。前髪の生え際は、一本ずつ彫り分けられている。
着物は薄紅の市松、その下に緑の菱文。袖口から出た手が、玩具を支えている。
視線はこちらへ来ていない。少し下、あるいは横を向いている。
そして背景。何も描かれていない。無地である。
右上に枠がひとつ。「婦女人相十品」と シリーズ の名があり、その下に「相観 歌麿考画」とある。
もう少し細部を見ておきたい。
輪郭線の太さが、場所によって変えてある。顔の輪郭はごく細く、着物の縁は太い。髪の生え際に至っては、髪一本ずつを別の線で彫っている。
これは毛割と呼ばれる技法で、一ミリに満たない幅の線を何十本も彫り残す。彫師の腕の見せ場である。
目は上瞼を一本の弧で、下瞼をごく短い線で示す。眉は薄く、輪郭を持たない面として置かれている。
唇は下唇だけに赤が差してある。上唇は輪郭線だけである。
顔の中で色が使われているのは、この唇と、頬のごくわずかな赤みだけだ。あとは白い紙の色である。
そして、この白は塗った白ではない。摺っていない部分の紙である。
顔を白く見せるために何もしない。まわりを塗ることで、顔が浮かび上がる。
七年前の、同じ画家の絵
この画面がどれほど異例だったかは、少し前の作品と並べると分かる。

1788年ごろの一枚である。
上端に瓦屋根があり、その下に格子と障子。縁側では女が二人、大きな盥を運んでいる。右手前にもう一人が坐り、鉢植えの草が置かれている。
人物は全身で描かれ、場面の中にいる。どこで、何をしているかが分かる。
これが当時の美人画の標準だった。人物は環境の一部であり、環境が主題の半分を担っていた。
顔の大きさを測ってみると、違いは数字で出る。
《洗濯》では、いちばん手前の女の顔は画面の高さの十五分の一ほどしかない。《ポッピンを吹く娘》では三分の一近くある。
面積でいえば、二十倍を超える差である。
そのぶん失われたものもある。《洗濯》には屋根があり、格子があり、鉢植えがあり、季節と時刻の手がかりがある。大首絵には何もない。
情報量を捨てて、顔の解像度を上げた。取引としては、かなり思い切っている。
その画家が、数年のうちに背景を捨て、顔だけを画面いっぱいに取るようになる。
美人画には、長い前史がある
歌麿の前にも、美人画の系譜は百年以上続いていた。
十七世紀の後半、菱川師宣が墨一色の版画で町の女性を描いた。まだ多色摺は無く、筆で彩色を足すこともあった。
十八世紀の半ば、鈴木春信の時代に多色摺——錦絵が確立する。春信の描く女性は、細く、小さく、少女のようで、しばしば物語の場面の中にいる。
その次の世代、鳥居清長は逆に人物を背高く描き、複数人を横に並べた群像を得意とした。
つまり歌麿の直前まで、美人画の主流は全身像だった。人物の背丈、着物の全体、そして場面。それが商品の中身である。
春信と錦絵の始まりについては別のコラムで、清長の群像についてはこちらのコラムで扱っている。
この流れの中に置くと、歌麿の大首絵がどれほど断絶的だったかが見えてくる。
売り物の中身を、背丈から顔へ切り替えたのである。
この記事の問い
なぜ、顔だけになったのか。
そして、その顔は誰の顔だったのか。特定の個人か、それとも型か。
さらにもう一つ。顔を大きくすることに、商売としてどんな意味があったのか。
版画は商品である。作り手の思いつきだけで判型は変わらない。売れる見込みがあったから、版元が金を出した。
技法・制度・商売の三つを同時に見ないと、この転換は説明できない。
喜多川歌麿は1753年ごろに生まれ、1806年に没したとされる。生年も出生地も確定していない画家である。
若いころは鳥山石燕という画家に学び、狂歌の絵本や役者絵を手がけていた。
転機になったのは、版元の蔦屋重三郎と組んだことである。
蔦屋は吉原の案内本から出発し、狂歌本、絵本、そして錦絵へと事業を広げた版元だった。歌麿を売り出し、のちに写楽も出した人物である。
1788年ごろ、二人は虫や貝を描いた豪華な絵本を出している。金銀を摺り込んだ、当時としては破格に凝った本である。
つまり歌麿は、いきなり美人画で出てきたわけではない。絵本の挿絵と、凝った摺りの実験を経て、大首絵に到達している。
その仕事を、判型の変化から追いかけたい。
「人相」という流行語
まず、あの シリーズ の名を見直したい。「婦女人相十品」。
人相とは、顔かたちから性質や運命を読む技術のことである。江戸後期には観相の本が数多く出版され、町人のあいだで流行していた。
つまりこの題名は、当時の流行語を借りている。
「十品」は十の等級・種類という意味だ。女性を十の類型に分け、それぞれの顔を見せる、という構えである。
同じころ歌麿は「婦人相学十躰」という似た シリーズ も出している。どちらも人相見の語彙を使っている。
ここが重要なところである。この枠組みでは、描かれる顔は特定の誰かではなく、類型の見本として提示される。
だから背景が要らない。場所も状況も、類型には関係がないからだ。
もっとも、この枠組みには危うさもある。
顔かたちから性質を読むという発想は、後の時代に人種や階層の差別と結びついていく。十九世紀のヨーロッパでは、観相学が疑似科学として制度化された時期もあった。
歌麿の シリーズ を、その系譜に直結させるのは行きすぎだろう。人相見はあくまで町の娯楽であり、彼が使ったのは題名の枠としてである。
ただ、「顔を見れば中身が分かる」という考え方が、当時の江戸で商品として通用していたことは覚えておきたい。
いまも、その考え方は完全には消えていない。
顔を大きく取る判型——大首絵——は、この考え方と相性がよかった。