画家を知る

五人を、横に並べる——鳥居清長の群像

鳥居清長は、五人の女性を横一列に並べた。異様に背の高い人物、二枚三枚を続けて使う工夫、背景として描かれた江戸の町。一人を大きく描く流れの中で、群像をどう成立させたのか。十五年前の絵と比べながら、構成の作り方を読む。

風俗東之錦
鳥居清長《風俗東之錦》メトロポリタン美術館蔵

五人が、横一列に並んでいる

一枚の版画から始めたい。

風俗東之錦
鳥居清長《風俗東之錦》より。1784年ごろ。大判の錦絵。メトロポリタン美術館蔵。鳥居清長《風俗東之錦》メトロポリタン美術館蔵

大きな傘の下に、人が五人いる。

中央に、黒い着物の女。頭に白い被り物をつけ、手には扇のようなものを持っている。

その左に、淡い色の着物の女。さらに手前に、小さな子ども。

右側には、髷を高く結った女が二人。うち一人は幼子を背負っている。

五人が、画面の左から右へ、ほぼ横一列に並ぶ。

奥行きはほとんど無い。全員が同じ距離に立っている。

背景も無い。地面の線すら描かれていない。

右下に「清長画」の落款。

着物の描き分け

もう少し細部を見たい。

五人の着物は、すべて柄が違う。

左の女は、菱形を並べた小紋。中央の女は、黒地に白い花を散らした柄。右の二人は、格子と縞である。

手前の子どもは、裾に草花を配した淡い色の着物。

同じ画面に、五種類の意匠が並んでいる。これは偶然ではない。

版画は、流行の情報源でもあった。何が着られているかを見るために買われた面がある。

だから柄は描き分けられる。同じ柄を二人に着せては、情報が減ってしまう。

彫師の負担は増える。柄の数だけ、細かい版を彫らねばならない。

それでも描き分けるのは、そこに商品価値があったからだ。

題名にある「東」

シリーズ の名も見ておきたい。〈風俗東之錦〉である。

「東」は江戸を指す。京・大坂に対して、東の都という言い方だ。

「錦」は多色摺の版画そのものを意味する。

つまり「江戸の風俗を、錦絵で見せる」という題名になっている。

地名を掲げる シリーズ は、当時よく作られた。江戸の景色、江戸の名物、江戸の女性。

自分の住む都市を主題にすること自体が、この時期の流行だった。

背が、異様に高い

この画面でまず気づくのは、人物の背丈である。

頭の大きさに対して、身体が長い。頭何個分あるかを数えると、七つから八つになる。

現実の日本人の体型としては、かなり無理がある。

しかも、五人全員が同じ比率で描かれている。子どもだけが小さいが、大人はみな同じ背丈だ。

顔も似ている。目の形、鼻の位置、口の小ささ。区別できるのは髪型と着物だけである。

つまりこれは、特定の誰かを描いた絵ではない。

姿勢にも規則がある。

全員が、上半身をわずかに傾けている。首を少し前へ出し、腰から下は反対側へ流す。

まっすぐ立っている人物が一人もいない。

この「S字にゆるく曲がった立ち姿」が、清長の人物の型である。

着物の裾は床に長く引かれ、その線が身体の傾きを引き継ぐ。裾が長いほど、傾きが強調される。

背が高いことと、裾が長いことと、身体が傾いていること。三つが組み合わさって、あの独特の優雅さが出ている。

十五年前の絵と、比べてみる

この体型がどれほど特殊かは、少し前の版画と並べると分かる。

鈴木春信の描く人物は、頭が大きく、身体が短い。頭五つ分ほどしかない。

手足は細く、顔は幼く、性別の差も曖昧である。少年とも少女ともつかない。

錦絵の始まりと春信については別のコラムで扱っている。

その十五年後に、清長は正反対の体型を持ち込んだ。

背が高く、肩幅があり、堂々としている。少女ではなく、成人した女性である。

理想の体型が、たった十五年で入れ替わっている。

同じことは、この後も繰り返される。

清長の十年後、歌麿の描く女性はふたたび体型が変わる。背丈は清長ほど高くなく、首が長く、顔が大きい。

さらに幕末になると、渓斎英泉や歌川国貞の描く女性は、猫背で、顎を引き、退廃的な姿勢をとる。

三十年で三度、理想の体型が入れ替わっていることになる。

現実の人間の体型が三十年で変わるはずはない。変わっているのは、売れる型のほうである。

版画は流行商品だった。この事実を、体型の変遷ほど雄弁に示すものはない。

この記事の問い

問いは二つある。

なぜ体型が変わったのか。

そして、なぜ清長は人物を横に並べたがったのか。

作者の鳥居清長は1752年の生まれ。江戸の書肆の子として育ち、鳥居派に入って四代目を継いだ人である。

鳥居派はもともと、芝居小屋の看板絵と役者絵を家業とする一門だった。美人画の一門ではない。

その家の当主が、1780年代に美人画で頂点に立った。この経緯も含めて追いかけたい。

背景として、江戸という都市

前提をひとつ補っておきたい。

十八世紀後半の江戸は、当時の世界でも有数の大都市だった。人口は百万人前後と推定されている。

その大半が、武家地と町人地に分かれて暮らしていた。町人地の人口密度は極端に高い。

そういう場所には、見知らぬ他人と居合わせる時間が大量に発生する。

橋のたもと、川べりの縁台、寺社の境内、行楽地。

清長が描いたのは、ほとんどがそういう場所である。家の中ではない。

春信の人物が室内にいることが多いのと、はっきり対照的だ。

主題が屋内から屋外へ出た。この変化も、体型の変化と同じ時期に起きている。