喜多川歌麿《寛政三美人》の解説——三人は誰で、どこで見られるのか
喜多川歌麿《寛政三美人》の解説。館の記録では1794年ごろの多色摺の木版画で、クリーヴランド美術館が所蔵する。題は富本豊雛・高島屋おひさ・難波屋おきたの三人を並べる。なぜ顔だけを大きく描いたのか、どこで見られるのかを、館の記録と画像から読む。

喜多川歌麿《寛政三美人》の解説である。三人の女の顔だけを、紙いっぱいに大きく描いた錦絵である。館の記録は、この図を三人の名を並べた題で呼ぶ。原本はクリーヴランド美術館にあり、画像は権利の制約なく公開されている。

《寛政三美人》はどんな絵か
三つの顔が、画面のほとんどを占める。上にひとり、下の左右にひとりずつ置かれる。三人の頭は、三角形に組まれている。
背景には何も描かれていない。部屋も庭も道具も出てこない。顔と髪と衿のほかには、紙の地があるだけである。
館の記録では、多色摺の木版画である。紙の寸法は37.5×25.4センチで、制作は1794年ごろとされる。錦絵でよく使われた大判という紙の大きさにあたる。いまの事務用紙でいえば、B4判とほぼ同じである。画面で見る印象よりずっと小さく、手に取って眺める大きさの絵である。収蔵の番号は1916.1158である。
黒く塗られた髪が、画面の三分の一ほどを埋める。その黒と、白く残された顔が、交互に並ぶ。肌には輪郭の線だけが引かれ、影は付けられていない。
生え際をよく見ると、髪は一本ずつの細い線で額へ溶け込んでいる。クリーヴランド美術館は、別の歌麿の一枚について、この毛筋の摺り方を説明している。線の両側を彫り取り、細く残した版木の稜で摺るのである。
髪には櫛と細い簪が挿してある。横に渡した棒のような挿し物が、三人ともほぼ同じ角度で画面を横切る。線の向きがそろうので、三つの頭がひとかたまりに見える。
画面の左には、歌麿の署名が縦に入る。左上には、小さな印が二つ押されている。一つは丸く、もう一つは山形の中に葉を置いた形である。浮世絵では、版元の印や検閲の印が画面の端に入る。
館の記録では、署名は「歌麿筆」である。下の左の女の髪のすぐ左に、縦に書かれている。版元は蔦屋重三郎で、印はその商標にあたる。もう一つは、検閲を通ったことを示す「極」の印である。
蔦屋は、歌麿の美人大首絵を次々に売り出した江戸の版元である。山形に蔦の葉を置いた印は、その店の目印だった。
同じ蔦屋が、1794年5月には写楽の役者大首絵を出している。写楽が仕事をしたのは翌年1月までの十か月ほどで、残る図はおよそ百四十種である。美人と役者の大首絵は、同じ店から同じころに世に出た。
もっとも歌麿は、蔦屋だけの絵師ではなかった。当サイトにある図だけでも、館の記録には近江屋権九郎、若狭屋与市、和泉屋市兵衛、松村屋弥兵衛、山田などの版元が見える。寛政の後半には、多くの店から注文を受けていたことになる。
三人は誰か
館の記録の題は、富本豊雛・高島屋おひさ・難波屋おきたの三人を並べる。いずれも、江戸で名の通った女性である。絵が売り物として成り立つのは、買う人がその名を知っていたからである。
ただし、どの顔が誰なのかは、クリーヴランド美術館の記録には書かれていない。
手がかりは画面の中にある。下の左の女性は、薄い色の着物の肩に丸い紋を付け、白い布を手にする。下の右の女性は、黒地に細かな模様の着物を着て、丸い団扇を持つ。上のひとりは、二人の肩のあいだから顔をのぞかせる。
三人の顔立ちは、よく似ている。細い眉も、長く切れた目も、小さな赤い唇も、作りはほとんど同じである。違うのは、着物の柄と持ち物と、顔の向きだけである。
つまり、見分けの手がかりは顔ではない。紋と持ち物と、画面の中の位置である。
視線の向きも見ておきたい。上の女は左下へ目を落とし、下の左の女は右を、下の右の女は左を向く。三人とも、こちらとも互いとも目を合わせない。三つの顔は寄り添っているのに、視線は少しずつずれて画面の外へ逃げている。会話の場面ではなく、三人の顔を見せるための並べ方である。
紋で誰と分かるか
同じ図を持つアメリカのトレド美術館は、紋から三人を見分けている。上のひとりは、桜草の紋を許された富本豊雛である。
富本節は、江戸で好まれた浄瑠璃の一派である。豊雛はその名手に習い、富本の名と桜草の紋を許された芸者だった。下の左は三つ柏の紋の高島屋おひさで、両国の薬研堀にあった店の娘である。
下の右は、団扇に桐の紋を入れた難波屋おきたである。浅草の水茶屋、難波屋で客をもてなした娘だった。
クリーヴランドの一枚を拡大すると、下の左の女の肩の紋は、三枚の葉を組んだ形である。下の右の団扇には、桐の葉と花が淡く摺られている。輪郭の線を使わず、色の面だけで摺った控えめな紋である。団扇の手前には、骨を見せた扇子も重ねて持っている。トレドの見分け方どおり、左がおひさ、右がおきたにあたる。
上の女の紋は、この一枚では衿と髪に隠れて見えない。残る一人として、豊雛にあたる。
着物の色も、三人を分けている。上の女は淡い桃色の衿をのぞかせ、髷には房の付いた簪を挿す。下の左の女は、白い布を肩に掛けて両手で端を持ち、肩口に朱の模様の下着が見える。下の右の女は、黒地に白い細かな柄の着物で、衿もとに桃色がのぞく。
館の記録の題にある三つの名は、画面に摺られた文字ではない。紋で名を示したのには、次に見る事情があった。
なぜ顔を大きく描いたのか
大首絵という型だからである。上半身、とくに顔を画面いっぱいに取る描き方を指す。見る人の目は、顔と手の二か所に集まる。
同じ歌麿にも、全身を描いた図がある。

ここでは三人が床にいる。ひとりは紙で櫛をぬぐい、子どもは頬づえをつき、もうひとりの女は団扇を持って横になる。右の端には、櫛をのせた赤い台と、輪の形の道具が置かれる。
館の解説では、櫛をぬぐうのは母親で、子どもの髪を結い上げたところである。寛政の後半になると、歌麿は暮らしの中のしぐさを美人画に多く取り込んだ。母と子の結び付きを描きながら、日常の場面を少し離れて見る目も感じさせる、と館は記す。
顔は小さく、場面のほうが広い。誰が何をしているかは分かるが、顔の作りまでは追えない。大首絵では、この場面のほうが省かれる。

《浮気の相》では、湯上がりらしい女が、手ぬぐいを両手で扱う。地は一色の淡い紅で、やはり背景は無い。左上には、題と署名を入れた短冊形の枠がある。
館の記録では、枠に摺られた揃物の題は「婦人相学十躰」である。署名は「相見 歌麿画」で、歌麿は人相見として女の性格を読む、という体裁を取る。館の解説は、この揃物が見た目から女の気質を当ててみせる趣向だと記す。
着物は肩から落ちかけ、胸もとが開く。顔は右へ向き、目は手もとを見ていない。顔と手だけで、絵が組み立てられている。
《寛政三美人》は、この顔の大きさのまま、人数を三人にした図である。
館の解説は、歌麿を、顔を間近に大きく描く美人画でよく知られた絵師と紹介する。《浮気の相》の揃物は、女を一人ずつ描き分け、見る人に比べさせる作りである。三人を一枚に並べた《寛政三美人》では、その比べる楽しみが、一枚の中で完結している。似た顔を三つ並べ、違いを紋と持ち物に託したのも、そのためと読める。
歌麿の美人大首絵は、寛政の初めから半ばにかけて多く出た。ちょうど寛政の改革で、幕府が出版の取り締まりを強めた時期に重なる。顔が三つ重なるぶん、画面は混み合う。手は、下の二人のぶんしか描かれていない。
なぜ三人の名前が書かれていないのか
町の娘や芸者の名は、絵に書き入れられなかったからである。東京の館の記録では、遊女以外の女の名を錦絵に書くことは1793年に禁じられた。吉原の遊女であれば、名を書き入れることができた。

《扇屋の滝川》では、右上の枠に「扇屋内 滝川」と名がはっきり摺られる。館の解説では、滝川は吉原でも格の高い店、扇屋の遊女だった。細い煙管を口もとへ運ぶしぐさは、当時の江戸の流行だったという。滝川の顔も、《寛政三美人》の三人とよく似た作りである。違うのは、名が摺られているかどうかである。
館の解説は、江戸の女たちがこうした美人画を、いまの流行誌のように買ったとも記す。名の知れた女の髪形や化粧を、絵で確かめたのである。

一方、《扇屋の花扇》では、名が文字ではなく小さな絵で示される。左上の枠に、開いた扇が二つ、人の姿、団扇、小さな桶のような絵が並ぶ。右には緑の蚊帳が垂れ、女はその前に膝をついて、胸もとに紙を押し当てる。館の解説によれば、この絵を解くと、花扇という名と、扇屋という店と、蚊帳から出てくるところという場面が分かる。
名を文字で書かずに示す工夫は、《寛政三美人》の紋とつながっている。買う人は、紋や絵の謎を読んで、誰の姿かを当てた。絵の中の手がかりを読むこと自体が、楽しみの一部になっていた。
難波屋おきたはほかの絵にも描かれているか
描かれている。当サイトには、メトロポリタン美術館が持つ歌麿の二枚がある。どちらも、おきたひとりを大きく描いた図である。

《難波屋おきた》では、おきたが黒い盆に茶碗をのせ、両手で運ぶ。淡い地に小さな葉の模様を散らした着物を着て、目は伏せ気味に茶碗へ落ちる。水茶屋で客に茶を出す、その仕事の姿そのものである。
右には歌麿の署名と、山形に蔦の葉の印、丸い「極」の印が並ぶ。《寛政三美人》と同じ組み合わせで、同じ版元から出た一枚と分かる。左上の枠には、文字の入った短冊が摺り込まれている。
もう一枚の《鏡に見入る難波屋おきた》は、館の記録では1790年から95年ごろの作である。館の記録では、地に雲母を摺っている。雲母の粉を地に摺り込むと、紙の面が鈍く光る。右の女は後ろ姿で大きな丸い鏡をのぞき、左には鏡に映った顔が描かれる。一枚の中に、同じ人の後ろ姿と顔とが並ぶ趣向である。
おきたの顔は、ここでも《寛政三美人》の二人とほとんど変わらない。違いを生むのは、茶碗や鏡といった持ち物と、場面の設定である。見分けの手がかりを顔の外に置く描き方は、三人を並べた図でも、ひとりの図でも同じである。
《寛政三美人》という呼び名
館の記録が示す題は、三人の名である。日本では《寛政三美人》や《当時三美人》の名で紹介されることが多い。寛政は、1789年から1801年までの年号である。
通称は、作品を探すときには役に立つ。一方で、館の記録に載っている題とは別のものである。当サイトは館の記録の題を正とし、通称は参考として添える。
同じ図でも、館によって英語の題の付け方が違うことがある。番号で引くほうが確実である。この図であれば、クリーヴランド美術館の1916.1158である。
どこで見られるのか
原本はクリーヴランド美術館にある。当サイトでは《富本豊雛・高島屋おひさ・難波屋おきた》のページで、画像を大きく開ける。
館の来歴の記録では、この一枚はクリーヴランドの収集家ジェプサ・ウェイド二世と妻エレンが館に贈った。番号の1916は、館に入った年にあたる。おきたを描いたほかの二枚は、メトロポリタン美術館にある。三人の図とひとりの図を、当サイトの上で並べて見比べられる。
錦絵は、同じ版木から何枚も摺られる。だから同じ図が、ほかの館にも残っていることがある。この図も、紋の見分けで触れたトレド美術館などが持っている。トレドの記録は、制作を1793年ごろとしている。摺りの時期や紙の状態によって、色の出方は一枚ごとに違う。
展示は、いつもあるとはかぎらない。紙に摺った作品は光に弱く、壁に出す期間が限られる。見に行く前に、館の展示情報をあたるほうがよい。
なお、歌麿は背景を描くこともある。

簾の向こうの女は、細かな線を引いた簾ごしに透けて見える。手前の女は、黒地に白い花を散らした着物で立つ。上には竹の葉がかかり、足もとには下駄が見える。奥の女の色が沈んで見えるのは、簾の線を重ねて摺っているからである。館の記録では、この図の版元は山田である。
歌麿はその後も美人画を描き続けた。1804年には、豊臣秀吉の遊興を題にした絵が幕府の禁に触れ、五十日の手鎖の刑を受けた。亡くなったのは、二年後の1806年である。
背景を描くと、顔は小さくなる。画面の中で顔が占める割合は、絵の型でこれだけ変わる。《寛政三美人》は、その幅のいちばん端にある。
大首絵より前に、全身の美人を群れで描いた絵師については鳥居清長の解説で扱った。同じころの役者の大首絵は写楽《三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛》の解説で見られる。ほかの作品は喜多川歌麿の作品一覧から開ける。








