川と工場を、同じ目で——ウィアとトワクトマンのコネティカット
フランスの川
二点目と三点目は、同じ題である。

川である。手前に岸の草地がある。
そこから水面が広がり、奥へ続く。
対岸は低い丘で、緑と褐色が混ざる。
空は灰色で、雲が薄く広がる。
色数は少ない。緑、褐色、灰色だけである。
筆は横方向に長く引かれている。
水面も丘も、水平の線の連続でできている。

同じ題で、はるかに大きい。
縦152.4センチ、横200.3センチ。
先ほどの絵のおよそ十倍の面積である。
構図もよく似ている。
手前に草地、中央に川、奥に丘と空。
ただし、手前の草の描写が違う。
細い葉が数本、鋭く立ち上がっている。
その線が、画面の下部に縦の要素を作っている。
小さい絵と、大きい絵
この二点の関係は、明らかである。
小さいほうが先に描かれ、大きいほうがその後に来る。
つまり、習作と本作の関係にある。
現場で小さく描き、画室で大きく仕上げる。
十九世紀の風景画の、標準的な作り方である。
当サイトでも
ビアスタットの習作で扱った。
面白いのは、大きくしても密度を上げていないことだ。
普通、画面が大きくなれば細部を増やす。
この絵は、逆に単純になっている。
対岸の木立も、丘の起伏も、大きな面に整理されている。
小さいほうの絵に見えた細かい調子が、むしろ減っている。
つまり、拡大ではなく、翻訳が行われている。
小さな紙で有効な描き方と、大きな画面で有効な描き方は違う。
同じ調子のまま引き伸ばせば、絵は間延びする。
そこを理解して作り直しているのが、この二点の関係である。
単純にする勇気
大きな画面を、少ない要素で持たせるのは難しい。
隙間ができ、間が抜けて見えやすい。
そこで多くの画家は、木や人物や雲を足す。
トワクトマンは、足していない。
草地と、水面と、丘と、空。それだけである。
その代わり、手前の草に鋭い線を入れている。
数本の線が、画面全体を引き締めている。
この判断は、日本の絵の空間感覚にも通じる。
余白を恐れず、要素を絞る。
同時代の画家たちが日本の版画から学んだことの一つである。
灰色の絵
この二点の色数の少なさにも触れたい。
緑、褐色、灰色。ほぼ三色である。
鮮やかな色は、一つも使われていない。
明るい絵が好まれる時代に、これは思い切った選択である。
灰色でまとめた画面は、地味に見えやすい。
しかし、色数を絞ると、わずかな差が効いてくる。
同じ灰色でも、青みの灰と黄みの灰では印象が違う。
その微差だけで、空と水と丘を描き分けている。
近くで見ると、灰色の中に多くの色が入っているはずである。
引き算の絵は、たいてい足し算より難しい。
白い衣の二人
四点目は、室内の人物画である。

大きな画面である。縦130.2センチ、横180.7センチ。
室内に、二人の女性がいる。
どちらも白い衣を着ている。
左の一人は、長椅子に腰かけ、体を横に向けている。
右の一人は、脚を投げ出して座り、楽器を抱えている。
その膝の上に、本らしきものが開かれている。
背景には、白いカーテンが掛かった窓がある。
光がその布を透かして入ってくる。
床には、暗い緑の敷物が敷かれている。
何もしていない絵
題が示すとおり、二人は何もしていない。
楽器を持ってはいるが、弾いてはいない。
本は開かれているが、読まれてはいない。
つまり、状態だけが描かれている。
物語も、教訓も、事件もない。
十九世紀の後半になると、こういう絵が増える。
主題は、光であり、色であり、雰囲気である。
当サイトでも
ハッサムの窓で、
同じ性格の室内画を扱った。
同時代の共通した関心だったと言える。
白の中の白
この絵の白についても書いておきたい。
二人の衣は白、カーテンも白である。
白い服を、白い背景の前に置いている。
普通なら、人物が背景に溶けてしまう。
そうならないのは、白の質を変えているからである。
カーテンの白は、光を透かして黄みを帯びる。
衣の白は、影の部分が青灰色に沈む。
同じ白でも、光の受け方が違う。
その差だけで、人物と背景が分かれている。
技術的には、かなり難しい仕事である。
部屋の暗い部分
一方、床の敷物と長椅子は暗い。
深い緑と、褐色である。
明るい白の面積が大きいぶん、暗い部分が効いてくる。
もし全体を明るくすれば、画面が浮ついてしまう。
下部に重い色を置くことで、絵が安定する。
構図の重心を、下に落としているとも言える。
大きな画面では、この配分がとくに重要になる。
縦130センチを超える絵は、床に近い位置まで見える。
そこに軽い色があると、絵が浮いて見えてしまう。