川と工場を、同じ目で——ウィアとトワクトマンのコネティカット
雪の川
五点目からは、コネティカットの絵になる。

雪の中を、細い流れが走っている。
水は暗い青緑で、雪の白と鋭く対比する。
流れは画面の中央を蛇行し、奥へ消える。
両岸には、雪が厚く積もっている。
その雪の面が、画面の大半を占めている。
上部には、細い木が数本立つ。
その枝に、橙色の葉がわずかに残っている。
白い画面の中で、その橙が唯一の暖色である。
白を、白で描く
雪を描くのは、実は難しい。
一面を白く塗れば、ただの空白になる。
そこで画家は、白の中に差を作る。
日の当たる面、影の面、水に近い面。
この絵の雪にも、青、灰、桃色が混ざっている。
近づいて見れば、白い部分に何色も置かれているはずである。
さらに、絵具が厚く盛られている。
その凹凸が、雪の質感を作っている。
つまり、材料の物理的な性質まで使っている。
滝の絵
六点目も、水である。

縦長の画面である。
上部に、岩から水が落ちている。
白い筋が、いくつも並んで下りる。
その下に、水が溜まり、流れていく。
周囲は岩と草で、緑と灰色と褐色が混ざる。
色は全体に淡く、輪郭がぼやけている。
筆は短く、方向がばらばらである。
そのため、画面全体がざわついて見える。
動きを、筆で表す
水の動きを描く方法は、いくつかある。
一つは、形を正確に写すこと。
もう一つは、筆の動きで示すことである。
この絵は、後者を選んでいる。
短い筆跡が四方に散り、その混乱が水の乱れになる。
対象の形と、筆の動きが対応している。
これは、絵具の物質性を利用した方法である。
写真にはできない表現でもある。
工場のある村
七点目は、主題が変わる。

手前に、大きな木が一本立っている。
葉が茂り、画面の左半分を覆っている。
その向こうに、村が広がる。
白い建物が並び、赤い屋根が見える。
そして、煙突が二本、高く立っている。
工場である。
空は青く、白い雲が浮かぶ。
明るく、穏やかな画面である。
煙突を、隠さない
この絵の要点は、煙突を隠していないことである。
木の枝で覆うこともできたはずだ。
角度を変えて、外すこともできた。
しかし、はっきり画面に入れている。
しかも、煙は出ていない。
稼働していない時間なのだろう。
つまり、工場は脅威としても、批判の対象としても描かれていない。
村の風景の一部として、そこにある。
産業を、風景として
十九世紀末のアメリカでは、工場が各地に建った。
川沿いには、水力を使う紡績工場が並んだ。
風景画家にとって、これは選択を迫る事態である。
無視するか、描くか。
多くの画家は、無視した。
美しい自然だけを選び、工場を画面から外した。
ウィアは、外さなかった。
この態度が、当サイトでこの二人を並べて扱う理由でもある。
工場そのもの
八点目は、さらに踏み込んでいる。

画面の左に、大きな建物が立っている。
三階建てで、窓が規則正しく並ぶ。
壁は白っぽく、屋根は平らである。
その手前に、道と橋がある。
橋の下には、水が流れている。
右奥には、別の建物と煙突が見える。
木々のあいだに、緑の丘が広がる。
空は淡く、明るい。
建物が、主役である
この絵では、工場の建物が画面の主役になっている。
木も水も、その背景として置かれている。
窓の並び方が、丁寧に描かれている。
窓は、規則的な格子模様を作っている。
その規則性が、画面に構造を与えている。
自然の不規則な形と、建物の規則的な形。
その対比が、この絵の構成になっている。
工場を醜いものとして描いていない。
形として面白い対象として扱っている。
冬の調和
最後の一点を見たい。

雪の風景である。
手前に、小さな流れがある。
水は暗く、雪の白と対比する。
その周囲に、細い木が立っている。
枝は細かく分かれ、空に向かって広がる。
一部の木には、橙色の葉が残っている。
奥は雪の斜面で、白く霞んでいる。
全体が、淡い灰色と白でまとめられている。
輪郭は溶け、形が曖昧である。
題が示すこと
題にある「調和」という語は、音楽の用語でもある。
色の調和を、音の調和になぞらえている。
十九世紀後半には、こうした題がしばしば使われた。
当サイトでも
ホイッスラーの題名で扱った。
絵を、物語から切り離して、色の構成として見せる。
その意図が、題に表れている。
つまり、この絵は雪景色の記録ではない。
白と灰色と橙の関係を見せる絵である。
九点を通して
九点を年代順に並べる。
1884年ごろ、1885年、1888年、1889年ごろ、1889年から91年ごろ。
そして1890年から1900年ごろ、1893年から97年ごろ、1895年、1897年。
十年余りの幅である。
ウィアが四点、トワクトマンが五点。
主題は、フランスの川、室内、雪、滝、鉄橋、工場。
自然と人工が、混ざっている。
選別しないこと
最後に、この二人の姿勢について書きたい。
風景画は、選別の芸術でもある。
何を描き、何を外すか。
その判断が、絵の性格を決める。
多くの風景画は、産業の痕跡を外してきた。
その結果、絵の中の田舎は、実際より美しくなる。
ウィアとトワクトマンは、その選別を緩めた。
赤い鉄橋も、工場の煙突も、画面に入れた。
そして、それらを醜いものとして描かなかった。
同じ光の下にある物として、同じ筆で描いている。
いま私たちが暮らす風景にも、同じ混ざり方がある。
自然と、構造物と、産業の跡。
それを分けずに見る目が、この九点にはある。
部屋に置くなら
最後に、飾ることについても書いておきたい。
灰色や白でまとめられた風景は、部屋の中で主張しない。
強い色が一点だけ入っている絵は、その一点が効く。
《赤い橋》なら、赤が部屋の差し色になる。
《氷結》なら、橙の葉がわずかな暖かさになる。
一方、工場の絵は、選ぶ人を選ぶかもしれない。
風景画に工場が入っていることを、どう受け取るか。
そこは好みの問題である。
ただ、暮らしている土地の風景を絵にするなら、
そこには必ず人工物が入り込む。
美しいものだけを選ばない絵のほうが、
案外、いまの暮らしには近いのではないかと思う。






