絵に、題名は要るのか——ホイッスラーと四分の一ペニーの判決
二百ギニーの絵と、四分の一ペニーの判決
1877年、ロンドンのグローヴナー・ギャラリーに、彼は〈ノクターン〉の一枚を出した。花火を描いた《黒と金のノクターン——落下する花火》である。
これを見た批評家ジョン・ラスキンが、同じ年に自身の刊行物へ書いた。
いわく、絵具の壺を公衆の顔に投げつけたような代物に、二百ギニーを要求する気取り屋がいるとは思わなかった、という趣旨である。
ラスキンは当時、イギリスで最も影響力のある美術批評家だった。この一文は、実質的に営業妨害である。
ホイッスラーは名誉毀損で訴えた。裁判は1878年11月に開かれている。
法廷でのやりとりとして、次の応酬が伝えられている。
弁護側が問う。この絵を仕上げるのに、どれくらいかかったのか。二日だと画家は答える。
では、二日の労働に対して二百ギニーを求めるのか、と重ねて問われる。
ホイッスラーはこう答えたとされる。いいえ、生涯かけて得た知識に対して求めているのです、と。
判決は、彼の勝ちだった。ただし認められた賠償は、一ファージング。四分の一ペニーである。
訴訟費用は当人の負担となり、翌1879年、彼は破産した。ロンドンに建てたばかりの自邸を手放している。
ラスキンの側も無傷ではなかった。この裁判を境に、批評家としての立場は大きく傷ついた。
どちらも勝っていない。
それでも、主張は残った
破産のあと、ホイッスラーはヴェネツィアへ行き、版画と素描で立て直した。
1885年には〈十時の講演〉と呼ばれる講演を行い、自分の考えを正面から述べている。
要点はこうである。絵画は自然の模写ではない。自然は素材にすぎず、そこから画家が要素を取り出して組み立てる。だから絵に道徳や物語を求めるのは筋違いである。
1890年には、批評家や知人とのやりとりをまとめた本を出した。題名は《敵を作る優雅な技術》。
負けを笑いに変える種類の人だった。
肖像画も、配置だった
主張は肖像画にも一貫している。

《テオドール・デュレの肖像》では、人物が暗い空間に浮いている。
床がどこで終わり、壁がどこから始まるのか、画面からは分からない。人物の足元は影に溶けている。
手に持っているのは、婦人用の外套と扇である。男性の正装に、その組み合わせは奇妙に見える。
しかし題名は説明しない。あるのは「肌色と黒の配置」という色の指定だけである。

俳優を描いた一枚では、画面はさらに暗い。黒の中に、白い襟と手と顔だけが浮かぶ。
こうした肖像のために、彼は何十回もモデルを立たせたと伝えられる。気に入らなければ画面を拭き取り、翌日また最初からやり直した。
一日の終わりに全部消してしまうこともあった、という証言もある。数字や回数は割り引いて読むべきだが、異様に難しい注文主だったことは確かだろう。

紙に描かれた小さな作品にも、同じ命名が使われている。「ノート」は音楽でいう一つの音、あるいは覚書のことである。

旅先で描いた小品は、手のひらほどの大きさしかない。それでも題名は「変奏曲」である。
大きさに関係なく、彼の作品はすべて同じ体系の中に置かれていた。
見立て——題名は、見方の指示書だった
ここからは書き手の見方である。
ホイッスラーがやったのは、絵の外側にある言葉を、絵の一部として設計することだったと考えたい。
普通、題名は絵の内容を指す標識である。《オックスボウ》なら地形の名、《ダンス教室》なら場面の名。
彼はそれを、見方の指示に置き換えた。「これを色の配置として見よ」と、題名が命じている。
この発想は、二十世紀の抽象絵画で当たり前になる。〈コンポジション〉〈無題〉といった作品名は、いずれも同じ機能を持っている。
その意味で彼は早すぎた。1877年の観客に、二百ギニーの《落下する花火》を受け入れる準備はなかった。
ただし、擁護しすぎるのも公平ではない。〈ノクターン〉の何枚かは、正直に言って画面として弱い。
薄い層を重ねる方法は、うまくいけば夜そのものになるが、外せば単なる曖昧な面で終わる。ラスキンの罵倒には、そういう作品を見た苛立ちも混ざっていた可能性がある。
批評家の言葉が下品だったことと、指摘が的外れだったことは、別の話である。
そしてもうひとつ、皮肉なことがある。
彼は絵に物語を読むな、と主張した。ところが後世に語り継がれたのは、絵そのものより、裁判という物語のほうだった。
四分の一ペニーの判決、破産、白い前髪、毒舌。これらが先に来て、〈ノクターン〉の実物は後から来る。
読むなと言った人が、いちばん読まれる伝記を残してしまった。
この事態は、彼の主張の弱点も示している。作品を作品だけで受け取ることは、実際にはかなり難しい。
題名を音楽用語にしても、額に蝶を描いても、作品は作者の生涯や時代と切り離されない。
それでも切り離そうとしたところに、この人の面白さがあると考えたい。
暮らしへ——題名を隠して、見てみる
最後に、家でできることを一つ。
好きな絵を画面に出して、題名を見ないで一分ほど眺めてみてほしい。
何が描いてあるかではなく、どの色がどこにどれだけあるかを見る。上のほうが明るいか、下が重いか。いちばん強い色はどこか。
そのうえで題名を読む。印象が変わるはずである。
多くの場合、題名を知った瞬間から、私たちは絵を「読み」はじめる。物語を探し、意味を当てはめる。
ホイッスラーは、その切り替えを起こさせないために題名を作り変えた。
自分で題名を付け直してみるのも面白い。「灰色と橙のアレンジメント」でも「窓辺のノート」でもいい。
名づけると、見え方が変わる。それを実感すること自体が、この画家の主張を追体験することになる。
飾るなら、彼の夜の絵は照明を落とした部屋によく合う。明るい光の下では、あの薄い層の階調がほとんど飛んでしまう。
光の条件で絵の見え方がどう変わるかは、こちらのコラムで扱っている。暗い絵ほど、置き場所が効く。







