作品を知る

道が、奥へ入っていく——広重・北斎・バルビゾンの画家ほか九点

建物の線が、道を作る

この一点では、道の形を建物が決めている。

建物の壁が斜めに走り、その足もとが道の縁になる。

道そのものには、線が一本もない。

しかし、建物の線を延長すれば、道の幅が分かる。

第十七回で扱った浮絵と、同じ仕組みである。

柱と梁の線が、奥へ収束していく。

ここでは、その線が建物の側だけにある。

道の右側は、画面の外である。

つまり、道の片側しか描かれていない。

それでも、道として読める。

木立に囲まれた田舎道(写生帖第七帖より)
ウィリアム・トロスト・リチャーズ《木立に囲まれた田舎道(写生帖第七帖より)》1886年。館の記録では、生成りの簀の目のない紙に鉛筆。12.7×19.1センチ。番号は1992.2.1のgの表。メトロポリタン美術館蔵。ウィリアム・トロスト・リチャーズ《木立に囲まれた田舎道(写生帖第七帖より)》メトロポリタン美術館蔵

第十七回でも、同じ写生帖の頁を読んだ。

線がきわめて淡い。

紙の右半分に、木立が描かれている。

幹が数本立ち、上で枝が広がる。

葉は、短い線の集まりである。

その左に、細い線が二本。

道の縁だろう。

奥へ向かって近づいていく。

そして、紙の左半分は、ほとんど白い。

薄い線が数本引かれているだけである。

紙の中央に、横向きの折り目らしい線が走る。

一枚の頁のなかで、描き込みが右に偏っている。

消失点は、どこにあるか

道が奥へ収束する先を、消失点と呼ぶ。

九点のうち、消失点がはっきり見えるのは三点である。

線図の頁では、画面の中央より少し上。

パリ近郊では、画面の中央よりやや左。

田舎道の写生では、右寄りである。

消失点の高さは、見ている人の目の高さを示す。

高い位置にあれば、高いところから見ている。

低ければ、低いところから見ている。

線図の頁の消失点は、画面の中ほどにある。

つまり、立って前を見た高さである。

パリ近郊も同じくらいである。

一方、広重の坂道には、消失点がない。

道が画面の外へ抜けているからである。

坂の上まで描いていない。

そして、街路の版画では、建物の線が奥へ集まる。

その集まる先が、画面の外にある。

第十七回で扱った浮絵では、消失点が画面の中に置かれていた。

外に置くか、中に置くかも、構図の選択である。

中に置くと、そこに目が吸い寄せられる。

外に置くと、画面の向こうへ視線が抜けていく。

九点の道を、形で分ける

九点の道を、形で分けたい。

まっすぐ奥へ伸びる道が、三点。

線図、パリ近郊、田舎道の写生。

曲がる道が、二点。

シスレーの道と、ヤウレンスキーの赤い帯。

斜めに走る坂が、一点。

広重の神奈川である。

建物の足もとに沿う街路が、一点。

そして、人で埋まって見えない道が、二点。

つまり、九点のうち二点では、道が画面に存在しない。

題にだけある。

第十七回で、題と画面の関係を何度も扱った。

題が画面の外の情報を持つことがある。

この二点も、その例である。

道の色

九点の道の色を並べたい。

淡い黄土色が二点。

パリ近郊と、広重の坂道である。

桃色がかった土の色が一点。

シスレーの道である。

赤みを帯びた帯が一点。

ヤウレンスキーの道である。

そして、白いままが三点。

線図、街路、写生帖の頁。

いずれも、紙の地がそのまま道になっている。

色の付いた四点を見ると、いずれも周囲より明るい。

道は踏み固められて草がない。

だから、土の色が出る。

周囲の草地や木立より明るくなる。

その明暗の差が、道を道として見せている。

もし道が周囲より暗ければ、溝か影に見えるだろう。

明るい帯が奥へ伸びる。

その形が、道の合図である。

ヤウレンスキーの赤い帯も、周囲の緑と青より明るい。

形を崩しても、明暗の関係は守られている。

道は、時間を含む

最後に、道が何を示すかをまとめたい。

道は、そこを歩けるということを示す。

つまり、移動できる。

そして、移動には時間がかかる。

奥へ伸びる道を見ると、目はその上をたどる。

手前から奥へ、順に見ていく。

一目で全体を把握する見方とは違う。

その意味で、道のある絵には時間が含まれている。

橋にも、同じ性質がある。

しかし、橋は短い。

道は、画面の外まで続いている。

見えている部分の先があると分かる。

九点のうち、道の終わりが見えているのは二点だけである。

残りは、木や建物や画面の縁で切れている。

先が見えないことが、道を道らしくしている。

次の回では、見ている人の位置を考えたい。

道が奥へ伸びるとき、見る人はその手前に立っている。

では、どれくらいの高さに立っているのか。

地面と同じ高さか、丘の上か、室内か。

画面には、見ている人自身は描かれない。

しかし、構図から位置は読める。

九点を並べて、その読み方を確かめたい。

高いところから見た絵と、低いところから見た絵。

同じ風景でも、まるで違うものになる。

誰が歩いているか

九点のうち、道に人がいるのは六点である。

パリ近郊に二人。

シスレーの道に二人と犬。

広重の坂道に七、八人。

街路の版画に七、八人。

そして、二つの群衆の絵には数十人。

人がいない道は三点である。

線図、赤い帯、写生帖の頁。

いずれも、完成した絵ではないか、形を崩した絵である。

つまり、ふつうの風景画では、道に人を置く。

道は人が通るものだからである。

誰も通っていない道は、不自然に見える。

そして、置かれた人の数が、その道の性格を示す。

二人なら、静かな田舎道。

七、八人なら、宿場や町の通り。

数十人なら、出来事の現場である。

人の数を数えるだけで、その道がどういう場所かが読める。

館の記録は、そこまでは書かない。

題に地名が入るだけである。

歩いている人の数は、画像から数えるほかない。

そして、数えてみると、絵ごとの密度の差がはっきりする。

同じ「道」という題でも、中身はまるで違う。

その差は、記録の欄には現れない。

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