九点とも、寸法が一ミリも違わない——ジョージ・カトリン
背景の色が、九点で違う
九点の背景を並べると、色がそろっていない。
淡い青、黄土色、緑がかった灰、薄い紫。
一枚ずつ、その場で決めているように見える。
同じ寸法の布を使いながら、背景の色は統一されていない。
一覧として作るなら、そろえたほうが見やすい。そうしていない。

九点のなかで、最も仕上がっていない一点である。
人物は全身で立つ。上衣は白に近い色で、膝まで届く。
腰に赤い帯を巻く。裾に房が付く。
脚には青灰色の脚衣を着ける。足元に赤い飾りが見える。
頭には赤と青の羽根が立つ。
右手に細い杖を持つ。左手には白いものを持つ。
背景はほとんど塗られていない。布の地の色が広く残る。
その地の上に、薄い線で山らしい形が描かれる。下描きの線である。
足元にだけ、淡い緑が置かれる。
途中で止まった画面
この一点では、背景の下描きが見えている。
線が引かれ、そこで作業が止まっている。
人物は仕上がっているので、順序が分かる。人物が先で、背景が後である。
多くの画面で背景が簡素なのは、この順序の結果でもある。
人物さえ描ければ、記録としては足りる。

九点で最も遅い年の一点である。
全身を描いた画面で、人物が立つ。
頭には羽根の飾りが載り、背中へ長く垂れる。
上半身は裸に近く、肩から胸に赤褐色の肌が見える。
腰から下は淡い黄褐色の衣で、房が付く。
右手に長い槍を二本持つ。左手には輪のついた道具がある。
背景の右に、丸みのある建物が見える。土で作られた住居だと思われる。
地面は緑で、手前が明るい。
題には地位が書かれていない。名と、その訳だけである。
地位の書かれない題
九点のうち二点の題には、地位が入らない。
名と、その訳だけで終わる。
書かれていないのは、分からなかったからかもしれない。
あるいは、地位のない人だったのかもしれない。記録は理由を書かない。
題の形が揃わないことも、記録の性格を示している。
顔を、正面に近く
九点のうち七点で、顔はこちらを向いている。
横顔は一つもない。斜めから見た顔が二点ある。
正面を向かせるのは、顔の情報を最も多く残せるからである。
肖像の記録としては、この選択が合理的である。
同時に、見る側と視線が合う。並べて掛けると、九人に見られることになる。
十五年の幅
九点の年を並べると、1830年、1832年、1834年、1836年、1845年である。
前半の八点は六年のあいだに集まる。
最後の一点だけ、九年あいている。
その九年のあいだに、画家はヨーロッパへ渡っている。
同じ寸法の布が、大陸をまたいで使われ続けたことになる。
同じ館に、まとまって残る
九点は、いずれも同じ館の同じ番号の系列に属する。
一括して館に入ったことを示す。ばらばらに集めたのではない。
大きな一群が、まとまりのまま伝わっている。
そのおかげで、寸法がそろっていることに気づける。
一点ずつ散っていれば、規格の話にはならない。
一覧を作るということ
同じ寸法、同じ構え、同じ簡素な背景。
条件をそろえれば、比べやすくなる。装いの違いが目に入る。
これは博物の記録に近い態度である。標本を同じ台紙に並べるのと似ている。
しかし、比べやすさは、選び方の偏りを見えなくする。
誰を描き、誰を描かなかったかは、並びからは分からない。
十九世紀の一覧づくり
十九世紀には、人びとを型に分けて並べる試みが各地にあった。
服装、道具、身体の特徴を、同じ形式で記録する。
そこには、比べれば分かるという考えがあった。
九点の同じ寸法も、その考え方の道具である。
いまの目で見れば、その形式自体が問い直される。
描かれた人びとについて
九点に描かれているのは、いずれも北米の先住の人びとである。
描いたのは、外から訪れた画家である。滞在は短い。
名前も、地位も、聞き取って書き取ったものである。
そこには誤りが入りうる。訳のずれも、綴りのゆれもある。
いま各地で暮らす人びとは、自分たちの名を自分たちで書いている。この記録はその外にある。
誰が名を決めるか
名は、本人と周囲のものである。
外から来た者が聞き取り、書き取り、訳す。そこで一度、他人の手に渡る。
館がその題を保存すれば、さらに固定される。
いま公開されている題は、その固定の結果である。
読む側は、そこに何段階の手が入っているかを意識しておきたい。
記録として残ったもの
それでも、この九点が残していることは少なくない。
衣の形、飾りの位置、髪の整え方、持ち物の種類。
文字の記録には残りにくいものが、色と形で残っている。
同じ画家の別の一群については、同じ大きさの紙に、二つの大陸が並ぶ——ジョージ・カトリンで扱った。
そちらは厚紙の束、こちらは布の束である。どちらも同じ考え方で作られている。
布の大きさから読む
この記事は、寸法の欄の数字から始めた。
九点とも同じ、という一行が、束としての性格を教えてくれる。
同じ布を使うことは、同じ扱いをするということである。
誰であっても、同じ大きさに収める。その平等さと、そこから漏れるものを、あわせて見ておきたい。
記録という言葉そのものを疑う視点は、「記録」という言葉を、疑ってみる——ジョージ・カトリンの肖像でも扱った。









