名画の楽しみ方

題が、音と訳と立場でできている——ジョージ・カトリンの肖像九点

訳が、二つ並ぶ

いま見た一点の題には、訳が二つある。

大鷲、または黒い犬。

括弧で、もう一つの訳が示される。

つまり、名の意味が定まっていない。

聞き取りが違ったのかもしれない。

あるいは、二つの名で呼ばれていたのか。

館は、両方を残す。

前の回で、二つの読みを並べる話をした。

こちらでも、同じ扱いである。

テーケネーキー、黒い上着、首長
ジョージ・カトリン《テーケネーキー、黒い上着、首長》1834年。館の記録では、カンヴァスに油彩。縦73.7センチ、横60.9センチ。題は、音を写した名と、その訳と、立場からなる。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ジョージ・カトリン《テーケネーキー、黒い上着、首長》スミソニアン協会蔵

縦長の画面である。

男性が、胸から上で描かれる。

頭に、赤と黒の羽根を立てる。

その上に、細い棒が斜めに伸びる。

首に、金色の玉の連が幾重にも掛かる。

胸に、赤と黄の布が下がる。

緑の上着を着る。

肩から、白い毛皮を掛ける。

右手に、赤い柄の道具を持つ。

道具の先に、白い部分がある。

背景は、褐色である。

ローラウィーレクー、戦に行く鳥、ある民族の人
ジョージ・カトリン《ローラウィーレクー、戦に行く鳥、ある民族の人》1832年。館の記録では、カンヴァスに油彩。縦73.7センチ、横60.9センチ。題は、音を写した名と、その訳と、属する集団からなる。スミソニアン・アメリカ美術館蔵。ジョージ・カトリン《ローラウィーレクー、戦に行く鳥、ある民族の人》スミソニアン協会蔵

縦長の画面である。

男性が、全身で描かれる。

腰を下ろした姿勢である。

頭に、赤い立てた飾りを付ける。

顔と上半身に、赤い顔料が塗られる。

首に、白い玉の連が掛かる。

胸に、銀の丸い飾りが下がる。

体を、黄褐色の衣が覆う。

衣は、床いっぱいに広がる。

背景は、淡い黄と青である。

輪郭は、柔らかい。

三つの部分が、揃う理由

なぜ、題が三つの部分でできているのか。

一つ目は、その人自身の名である。

二つ目は、意味を伝えるための訳。

三つ目は、誰であるかを示す説明。

つまり、書き手が三つとも必要と考えた。

音だけでは、意味が伝わらない。

訳だけでは、区別がつかない。

説明がなければ、誰か分からない。

記録は、誰のものか

ただし、注意しておきたいことがある。

この題は、描かれた人が付けたものではない。

外から来た人が、聞き取り、書き留めた。

つまり、その人の耳と判断の記録である。

前の回で、絵が誰の見方の記録かを書いた。

題も、同じである。

描かれた人々の記録ではない。

書き留めた人の記録である。

いまの表記と、違う

いま、それぞれの民族は自分たちの表記を持つ。

学校で教え、辞書を作り、書物を出している。

そこで用いられる綴りは、九点の題とは違う。

つまり、九点の題は歴史的な表記である。

館は、それを承知で残している。

改めれば、当時の記録が消えるからだ。

そして、いまの表記は別に記録される。

二つを並べて置くのが、いまのやり方である。

音を写すことの、難しさ

ある言語の音を、別の言語の文字で書く。

これは、必ず歪む。

その文字にない音は、書けない。

近い音で代用するしかない。

そして、聞き手の耳も完全ではない。

前の回で、翻刻の話を何度もした。

音を写すのは、翻刻よりさらに難しい。

書かれた文字を写すのではなく、消える音を写すからだ。

名は、その人のものである

最後に、当たり前のことを書いておく。

名は、その人のものである。

書き留めた人のものではない。

だから、綴りが違っても、名は変わらない。

九点の題にある音は、近似にすぎない。

しかし、その近似の向こうに、実在した人がいる。

顔が描かれ、名が残された。

二百年近く前の、その人である。

九点の年を、並べておく

九点の年を、順に並べる。

1830年。1831年。1832年が三点。

1834年。1835年が二点。1836年ごろ。

つまり、七年のあいだに描かれている。

そして、地域が広く散らばる。

北の川筋、南の平原、東の森。

七年で、それだけの土地を回ったことになる。

館の年の欄が、その速さを示している。

顔を、正面から描く

九点のうち六点は、正面かそれに近い向きである。

つまり、顔がまっすぐこちらを向く。

これは、記録のための描き方だろう。

横顔なら、片側しか分からない。

正面なら、両目が見える。

前の回で、肖像が記録として働く話をした。

こちらでも、同じ考え方が働いている。

そして、背景はほとんど描かれない。

顔と衣装だけが、はっきり残される。

装身具が、細かく描かれる

九点の人物は、いずれも装身具を着けている。

銀の丸い飾り。

玉の連。

羽根の飾り。

毛皮。

そして、赤い顔料。

いずれも、細かく描き分けられる。

つまり、画家はそこを重んじた。

顔と同じくらい、身につけたものを写している。

館の記録は、そこまでは書かない。

題と年と寸法だけである。

記録として、扱うこと

これらの絵は、記録として描かれた。

しかし、記録として読むには注意が要る。

描いたのは、外から来た一人の人物である。

その人の関心と、その人の限界がある。

見たものだけを描き、聞いたことだけを書いた。

つまり、部分的である。

前の回で、絵が誰の見方の記録かを書いた。

九点も、同じように読む必要がある。

そして、そのことを踏まえたうえで、顔と名は残る。

題を、書き換えないこと

館は、当時の題を書き換えない。

読みやすく直したり、いまの表記に改めたりしない。

理由は、これまでの回で何度も見てきた。

書き換えれば、当時の記録が消える。

そして、書き換えたことも分からなくなる。

その代わり、注記や解説を別に加える。

つまり、上に重ねるのであって、消さない。

前の回で、後の手の書き込みの話をした。

館の注記も、後の手である。

ただし、それと分かる形で置かれる。

名を、残すということ

九点の題のいちばん前には、人の名がある。

風景の名でも、場面の名でもない。

一人の人の名である。

そして、その名がいま検索の鍵になる。

前の回で、名が記録の骨組みになる話をした。

こちらでも、同じことが言える。

音の写し方に限りはあっても、名は残った。

残ったから、いま呼ぶことができる。

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