ドガはなぜ、踊っていない踊り子ばかり描いたのか——動きを描く方法
絵にならない主題を選ぶ
彼の主題選びには、はっきりした癖がある。絵になりにくい場面を選ぶのである。

美術館で絵を見る人の後ろ姿。これを主題にした画家は、当時ほとんどいない。
見どころは、姿勢と重心である。片脚に体重をかけ、首を少し傾け、手には案内書らしきものを持つ。
見ている対象、つまり壁の絵は描かれていない。何を見ているかではなく、見ているという動作だけが残される。
同じ構えは、帽子屋の絵にもある。客が鏡の前で帽子を試す。店員は視界の外にいるか、切られている。
物語がなく、感情の説明もない。ただ、人が何かをしている。
十九世紀の絵画は、意味のある場面を選ぶのが普通だった。歴史、宗教、寓意、あるいは道徳的な教訓。
彼はその条件を外した。意味のない一瞬を、構図の力だけで絵にできるか。この賭けが、彼の仕事の核心にある。
十四歳の踊り子という事件
彫刻の話が出たので、もっとも有名な一体に触れておきたい。
1881年の印象派展に、彼は蝋で作った等身大に近い踊り子の像を出した。十四歳の少女をモデルにしたものである。
問題は作り方だった。蝋の体に、本物の布のチュチュを着せ、本物の髪を植え、リボンを結んでいる。
ガラスの箱に入れて展示された。当時の批評は、美術というより標本や人形に近いと受け取り、賛否が激しく分かれた。
いま見れば、素材を混ぜることは珍しくない。だが当時、彫刻とは石か青銅で作るものだった。
写実を突き詰めると、本物を使うほうが早い。その身も蓋もない結論に、彼は一度手を出したことになる。
面白いのは、これ以後、彼が同種の展示をほとんどしなかったことである。蝋の像は自宅に積まれ、死後に発見された。
生前に公開したのは、この一体だけだった。実験と公表を、彼ははっきり分けていたらしい。
扇の形をした絵
彼の画面の切り方に、もう一つの出どころがある。日本の版画である。
ドガも同時代の画家の例にもれず、日本の版画を集めていた。壁に貼り、机に置いて眺めている。
その影響がとりわけ分かりやすいのが、扇の形をした画面である。彼は扇面に踊り子や風景を描いた作品をいくつも残した。
扇形は、四角い画布とはまるで条件が違う。上が広く下が狭い、両端が斜めに切れる。
その不自由な形の中で、人物をどう置くか。ここでも彼は、切ることと余白を残すことで解決している。
日本の版画が西洋の画家に渡したものについては別のコラムで書いた。切る、影を捨てる、高い位置から見る。
ドガはそのうち、切ることと視点の高さを徹底して使った。逆に、影を捨てることには最後まで踏み込まなかった。
彼の画面には、しっかりした暗がりが残っている。素描から入った画家として、立体を手放すつもりはなかったのだろう。
誰が最初に買ったか
もうひとつ、市場の話を添えておきたい。ドガの絵をアメリカへ広めた人物がいる。
ルイジーン・ハヴマイヤーである。彼女が最初に手に入れた本格的な作品は、ドガのパステルだったと伝えられる。
二十代前半での購入で、助言したのは友人のメアリー・カサットだった。
カサットについては浮世絵のコラムで書いた。日本の版画に学び、ハヴマイヤー家の収集を長く助言した画家である。
その助言の結果、ハヴマイヤー家はドガの作品を大量に集めることになる。のちにその多くがメトロポリタン美術館へ入った。
いま私たちがアメリカの美術館でドガをまとめて見られるのは、この経路のおかげである。
画家の評価は作品の質だけで決まらない。誰が買い、誰が寄贈し、どこの壁に掛かるか。そこまで含めて、いまの見え方が作られている。
動かない絵で、動きを見る
ドガの絵を見ていると、妙なことに気づく。動きを描いているのに、画面はどれも静かである。
理由のひとつは、彼が動作の頂点を選ばないことだと思う。跳んだ瞬間、決めた瞬間ではなく、その前後を描く。
伸ばしかけた腕、下ろしかけた足、まだ力の入っていない肩。動作の途中は、次に何が起きるかを見る側に想像させる。
止まった画面が動いて見えるのは、たぶんこの想像のぶんである。写真が一瞬を固定するのとは、逆の方法になっている。
そしてもうひとつ、彼は同じ主題を何度も描いた。稽古場を、馬を、アイロンを。
同じ主題を条件を変えて繰り返したモネの連作については別のコラムで書いた。ドガの反復はそれとは違い、姿勢の目録に近い。
一枚ごとに違う姿勢を集め、全体で「体の動きの辞書」を作っている。個々の絵は、その一項目である。
当サイトでは、彼の作品を主題ごとに並べて見ることができる。踊り子、馬、労働、観客。
並べて眺めると、同じ関心が繰り返し現れることが分かるはずだ。彼が生涯やっていたのは、たぶんひとつの研究だったのである。









