夕方は、行動に写る——モネ・陶泓・ムンクほか九点
夕食後の食卓に器が三つ残り、農夫が家路につき、灯りの下で縫い物が続く。朝が題の行にしか宿らないのに対し、夕方は人の行動そのものに写る。帰る・居残る・選ぶ・縫う・片づける。九点の夕方を動詞で数え、朝の回と対にして読む。人のいない夕べも並べた。

ランプの下に、器が三つ残っている
夕方の部屋の絵である。
天井から吊られたランプに、火が入っている。
笠の下のふくらみが、白く光っている。
丸い食卓の上は、あらかた片づいている。
残っているのは、受け皿つきの器が三つだけである。
手前には椅子が二脚、こちらへ背を向けて並ぶ。
一脚は引かれたまま、誰も座っていない。
女が一人、卓の向こうで手元の白い布に針を入れている。
背中を見せた男が、その向かいに掛けている。
右奥では、暖炉にもたれた男が立ったまま話している。
炉の中では、薪がまだ赤い。
壁の花模様は、暗がりに沈みかけている。
光っているのは、ランプと、卓の面と、白い布だけである。
窓は描かれていない。
外の空は、一片も見えない。
それでも、これが夕方だと分かる。

題は《室内、夕食後》という。
時刻の名が、行いの名で言い換えられている。
夕食のあと、という言い方は、日没から何分たったかを指さない。
その家で食事が済んだ、という目印があるだけである。
この題は、空ではなく食卓を基準にして、時を呼んでいる。
館の記録に、この絵の解説の文はない。
書いてあるのは、1868年から1869年という年と、寸法と、来歴だけである。
来歴の欄には、収集家夫妻の名が並ぶ。
横は65.4センチで、手元に置いて眺めるくらいの大きさである。
壁に掛けて大勢で見るための大画面ではない。
一つの家の、一つの晩がおさまる寸法である。
左下の隅には、署名がある。
画家が二十八のころの作である。
さて、朝の回で、朝は画面から確かめにくいと数えた。
朝の絵は、題の行に朝を預けていた。
では夕方はどうか。
この絵の答えは、はっきりしている。
移動をやめ、火を囲み、水をやる。
夕方は、空の色ではなく、人の行動に写る。
夕方の空の色については、夕方は空の色だけで示すという回が既にある。
今回はだから、色ではなく行動を数えたい。
夕方の絵の中で、人は何をしているのか。
日本語には、たそがれという語もある。
「誰そ彼」、つまり、あれは誰かと問う時刻が語源だと言われる。
顔の見分けがつかなくなるほど暗い、という時間の定義である。
光の量ではなく、人に起きることで時刻を呼ぶ。
夕方の絵も、同じやり方で夕方を示すのではないか。
九点で確かめてみる。
帰る人と、帰りそびれた人
夕方の行動の筆頭は、帰ることである。

絹の地は、飴色に焼けている。
四百年分の時間の色である。
その中を、浅い流れに沿って農夫たちが歩いている。
木々の枝は、まだ半ば裸である。
鍬をかつぎ、家のほうへ向かう。
題のとおり、野良仕事からの帰り道である。
館の記録では、作者の陶泓は今日ではほとんど知られていない画家だという。
だが、読み込まれた細部は多い。
浅い流れと、まだ水を張らない田。
芽吹きはじめた緑の点々。
そして、ねぐらへ帰る鳥。
これらがみな、農作業の始まる季節と、実りへの期待を示すと記録は読む。
人だけでなく、鳥まで帰り道にいる。
夕方は、画面の全員が同じ方向へ動く時間である。
朝の出がけなら、人はてんでな方向へ散ってゆく。
帰りは、方向がそろう。
そろった向きが、時刻の矢印になる。
この一葉には、対になるもう一葉があることも記録に書かれている。
そちらは竹林に鶴が一羽立つだけの、より詩的な画面だという。
働く夕べと、静かな夕べ。
画帖は、二種類の夕方を持っていた。
帰るはずの時間に帰れない人々も、絵になっている。

岩がちの山の頂に、男女の一行が腰を下ろしている。
敷物が広げられ、籠のようなものが置かれている。
眼下には谷がかすみ、遠くの空だけが夕焼けの色になっている。
人の群れは、画面の右下の隅に寄せられている。
残りの大部分は、山と空である。
人の小ささが、そのまま帰り道の長さに見える。
岩の上には、女たちのスカートの色が点々と散っている。
行楽の華やかさと、日暮れの薄暗さが、一枚の中で入れ替わりつつある。
一人が立ち上がり、遠くを指している。
題は《マンスフィールド山で日暮れを迎えた一行》である。
英語の題の最初の語は「遅れた」を意味する。
行楽の一行が、山の上で日暮れに追いつかれたのである。
この作品の記録は短く、場面の説明はない。
だが、題の一語が物語の全部を引き受けている。
彼らはこれから、暗くなる山道を下りなければならない。
指の先にあるのは、眺めではなく、帰り道だと考えられる。
行楽の絵に、帰りの心配を描き込む。
1858年のアメリカで、山登りはまだ新しい遊びだった。
遊びの絵のはずが、題の一語で、小さな冒険の絵になっている。
夕方の絵の緊張は、帰れるかどうかの緊張である。
夕食の支度と、灯りの下の仕事
家に帰り着いた人には、次の行動が待っている。