作品を知る

夕方は、行動に写る——モネ・陶泓・ムンクほか九点

夕べと朝
エラスタス・ダウ・パーマー《夕べと朝》1850年ごろ。館の記録では、大理石。直径53.3センチ。番号は1977.10。クリーヴランド美術館蔵。エラスタス・ダウ・パーマー《夕べと朝》クリーヴランド美術館蔵

丸い浮彫が二枚、対になっている。

どちらも、翼のある横顔である。

片方が夕べで、片方が朝だという。

夕べの顔はうつむき気味で、朝の顔は上を向いているように見える。

だが、どちらがどちらかを決める銘は、記録に書かれていない。

翼がなぜ付いているのかも、記録は説明しない。

時刻を人の姿にするとき、翼は約束事のように付いてくる。

時間は飛び去るものだ、という言い回しの通りである。

ただし、これは記録の外の連想である。

館の記録では、作者は若いころ、貝や石に小さな肖像を彫るカメオの職人だった。

この繊細な彫りは、その修業の名残だろうと記録は読む。

夕べと朝が、同じ大きさ、同じ形式で向かい合う。

朝の回で見た擬人の暁と同じく、時刻がここでは顔を持っている。

そして、朝の回とじかにつながる一枚が、もう一点ある。

夜明けと日没
ヘンリー・ピーチ・ロビンソン《夜明けと日没》1885年。館の記録では、三枚の原板からのアルブメン・プリント。画面は54.5×78センチ。番号は1998.107。クリーヴランド美術館蔵。ヘンリー・ピーチ・ロビンソン《夜明けと日没》クリーヴランド美術館蔵

赤ん坊の夜明けと、老人の日没。

朝の回で見た合成写真と、同じ図である。

だがこれは、同じ原板から焼かれた別の一枚である。

あちらはプラチナで、小さかった。

こちらはアルブメンで、幅78センチある。

館の記録は、二枚を焼き比べている。

プラチナの階調は柔らかく、アルブメンは報道写真のように硬いという。

同じ夕方でも、焼き方で温度が変わる。

原板が三枚ということは、この室内は三回に分けて写されたということでもある。

画面の中の一つの夕方は、現実には別々の時間の寄せ集めだった。

一つの図が、朝の記事と夕方の記事に一枚ずつ掛かっている。

この偶然は、原板が三枚だったことよりも面白い。

数えると、こうなった

九点の夕方を、行動で数える。

帰る絵が二点。

農夫は帰り、山の一行は帰りそびれている。

夕食にかかわる絵が二点。

選ぶ前の土間と、済んだあとの食卓である。

灯りの下の針仕事が二点。

心の夕べが一点。

擬人と比喩が二点。

そして、人のいない風景が一点。

場所も数えておく。

屋外が四点、屋内が三点、浮彫と写真の仕立て物が二点。

外と内が、ほぼ半々である。

夕方は、まだ外にいる人にも、もう家にいる人にも見えている。

灯りも数えられる。

九点のうち、ともった灯りが写るのは二点。

モネの吊りランプと、ルブールの油ランプである。

どちらも屋内で、どちらも卓の上に光の輪を作っている。

外の四点には、灯りが一つもない。

夕方は、外ではまだ灯りの時間ではない。

灯りがともりきったら、それはもう夜の絵になる。

夕方は、外の明るさと家の灯りが釣り合う、短い均衡の時間である。

その均衡の危うさが、夕方の絵の魅力の芯にあるのだと考えられる。

大きさも並べておく。

いちばん大きい夕方は、幅160センチの山の一行である。

いちばん小さい夕方は、24センチ角の画帖の一葉である。

壁に掛けて大勢で見る絵と、手元でめくる帖。

夕方の絵の寸法は、主題ではなく、見られ方で決まっている。

モネの65センチは、その中間にある。

一つの家の、一つの晩がおさまる大きさである。

朝の回では、朝は題の行にしか宿らないことが多かった。

夕方は違う。

九点のうち五点で、行動そのものが夕方を語っている。

帰る、居残る、選ぶ、縫う、片づける。

どれも、動詞で言える。

朝の絵には、こうした動詞がほとんど見つからなかった。

夕方は、絵にとって、朝よりずっと描きやすい時刻だと言えそうである。

名前も数えておく。

九点に描かれた人のうち、名が記録に残るのは、憂鬱の男ヤッペ・ニルセン一人である。

農夫にも、山の一行にも、縫う三人にも、卓を囲む人にも、名の欄はない。

ルブールの三人は母と妹と妻とまでは分かるのに、名は書かれていない。

夕方の絵の人々は、役割で呼ばれる人々である。

語も数えておく。

日本語の題では、夕べが五点、夕食が二点、日暮れが一点、日没が一点。

九点のすべてが、題のどこかに夕方の名を入れている。

朝の三通りに対して、夕方は四通りの言い方を持っていた。

言い方が多いのは、それだけ長く、それだけ惜しまれてきた時間だからだと考えたくなる。

ただし、これは九点の外の話である。

言えないことも書いておく。

行動で夕方が分かるというのは、この九点で数えた話である。

夕方の絵の全体でそうかどうかは、ここからは言えない。

それでも、朝との差は理屈で説明できる。

朝の行動は、始めることである。

始まりは、続きと見分けがつきにくい。

夕方の行動は、終えることである。

終わりには、火と食事と帰り道という道具立てがある。

絵は、終わりの道具立てのほうを持っている。

朝の回の結論と並べると、対になる。

朝という題は、画家を信じるための言葉だった。

夕方は、信じなくてもよい。

帰る人の背中が、画面の中で証言している。

最後に、記録に残らないことを一つ。

モネの部屋が誰の家なのか、卓を囲む三人が誰なのかを、記録は書いていない。

分かるのは、二十代の画家がその晩そこにいた、ということだけである。

灯りの下の一時間は、日記にも残らず、絵にだけ残った。

夕方は一日の中の時刻だが、絵の中では、遠い一日の言い換えにもなる。

朝がそうだったように、夕方もまた、二重の意味を運んでいる。

確かめるすべは、もうない。

分かっているのは、九点の誰もが、まだ一日を終えていないことである。

農夫は家に着いておらず、山の一行は下りはじめてもいない。

獲物は選ばれておらず、縫い物は途中である。

食卓の器も、まだ下げられていない。

夕方の絵は、終わりかけの絵であって、終わった絵ではない。

暖炉の火はまだ赤く、山の一行はまだ頂にいる。

二つの灯りの下の縫い物も、終わらないままである。

夕方の絵を見るということは、その終わりかけの時間に、もう一度立ち会うことである。

絵の中のランプは、今日も同じ晩を照らしている。

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