画家を知る

筆あとを、消さない——フランス・ハルスの肖像

晩年——筆が、さらに速くなる

男の肖像
フランス・ハルス《男の肖像》1650年代前半。油彩・画布。縦110.5センチ、横86.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。フランス・ハルス《男の肖像》メトロポリタン美術館蔵

晩年の一点である。

黒い衣の男が立ち、左手を腰に当てている。

袖口から白い布が大きくはみ出している。

この白の描き方を見てほしい。

形が定まっていない。太い筆を斜めに置いた跡が、そのまま残っている。

布の襞ではなく、絵具の襞である。

離れて見ると、揺れる布に見える。近づくと、絵具の塊に見える。

襟も同じで、白と灰の面が数回の筆で置かれている。

顔だけは丁寧に描かれ、目と口の周りに細い線が入っている。

顔に手をかけ、衣は速く済ませる。仕上げの配分が明確である。

姿勢にも変化がある。

初期の肖像は、体を正面に近い角度で置いていた。

晩年の肖像では、腰に手を当て、肘を張る姿勢が増える。

体が斜めになり、袖と手が前に出る。

動きのある姿勢は、速い筆と相性がよい。

止まった姿勢では、細部の粗さが目立ってしまう。

描き方と姿勢の選択は、連動していたと考えられる。

黒は、一色ではない

服の色にも触れておきたい。

17世紀のオランダの肖像では、黒い服が圧倒的に多い。

理由はいくつか挙げられる。

黒く染めるには手間がかかり、良い黒は高価だった。

だから黒い服は、質素に見えて富の表示にもなった。

加えて、当時の宗教の規範が派手な装いを避けた面もある。

画家の側から見ると、黒は難しい。

一色で塗ると、平らな板になってしまう。

だからこの画家は、黒を何種類も使い分けている。

温かみのある黒、青みのある黒、灰に近い黒。

袖と胴と帽子で、黒の質を変えている。

黒の中の差だけで、布の種類と立体が示されている。

速さは、値段に関わる

商売の側も考えておきたい。

肖像画の代金は、寸法と人数と仕上げの程度で決まった。

筆を速く動かせば、一点にかかる日数が減る。

日数が減れば、同じ期間に受けられる注文が増える。

つまり速さは技術であり、同時に経営の手段でもある。

同じ時代のアメリカの画家が、帳簿に日数と値段を書き残していた例がある。

その仕組みは別のコラムで扱った。

ただし、速さだけで成立したわけではない。

顔の描写には時間をかけている。省くところと詰めるところを分けている。

晩年の困窮について

伝記の面にも触れておきたい。

この画家は晩年、経済的に苦しかったと伝えられる。

市から支援を受けたという記録も残っているとされる。

肖像画の流行が変わり、より滑らかな仕上げが好まれるようになった。

速い筆は、時代の好みから外れていったのだろう。

もっとも、当サイトの公開記録から確認できるのは制作年と寸法までである。

生活の詳細については、伝えられている範囲として書いておきたい。

評価の変遷にも触れておきたい。

19世紀に入ると、この画家の速い筆が高く評価されるようになる。

印象派の画家たちが手本にしたとも言われる。

筆の跡を残す描き方が、近代の絵画で価値を持ったからである。

同じ絵が、時代によって「粗い」とも「新しい」とも読まれる。

評価は絵の側ではなく、見る側の基準で動く。

集団肖像という仕事

もう一つの分野にも触れておきたい。

この画家は、市の民兵隊や慈善団体の集団肖像を手がけた。

十人以上を一つの画面に並べる仕事である。

代金は参加者が分担し、顔の位置で金額が変わることもあった。

つまり画面の中の位置が、支払いと結びついている。

構成の自由は限られ、全員の顔を見せる必要がある。

そのうえで単調にならないよう、姿勢と視線を変える。

集団肖像は、注文の条件と構成の工夫がぶつかる分野だった。

当サイトの公開分には隊員の単独像が含まれている。

見立て——速さは、選ばれた仕上げである

まとめておきたい。

初期の作品では、レースの編み目まで描かれていた。

晩年の作品では、白い布が数回の筆で示されている。

つまり筆の速さは、技量の衰えではない。

描くべき情報を選び、残りを見る側に委ねる方法である。

近づくと絵具に見え、離れると布に見える。

その二重性を、この画家は正面から使っている。

公開分の年代の幅

最後に、公開分の構成を確かめておきたい。

17点の制作年は1616年ごろから1650年代までに及ぶ。

四十年近い幅がある。

一人の画家の変化を追うには十分な材料である。

そしてほとんどが肖像であるため、同じ形式の中の変化が見える。

主題が揃っていることは、比較の条件としては有利である。

暮らしへ——近づいて、離れて見る

最後に、日常に持ち帰れる話をひとつ。

美術館で絵を見るとき、二つの距離を試してみてほしい。

まず近づく。絵具の盛り上がりと筆の跡を探す。

次に五歩下がる。跡が形に変わる瞬間がある。

その距離を覚えておくと、画家が想定した見方が分かる。

公開画像でも同じことができる。拡大と縮小を往復すればよい。

拡大して筆を見られるのは、画面のほうが有利な点である。

高解像度の公開画像の使い方は別のコラムにまとめた。

もう一つ。手元の白い布を、光の下で眺めてみてほしい。

襞の影は、思ったより少ない色数でできている。

明るい面、中間、暗い縁。三段しかない場所も多い。

三段で足りるという発見が、速い筆の出発点にある。

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