同じ森、違う道——ロイスダールとホッベマ
暗い額縁の、奥の光
ホッベマの到達点と呼びたい一点がある。

今回の九点で、これだけが縦位置である。
縦81.9センチ、横66.4センチ。森の奥行きを、縦の画面で覗き込む形になる。
手前は暗い木立。太い幹と茂った梢が、画面の縁を囲む。暗い額縁のようである。
その額縁の奥に、日の当たる農家が見える。壁は明るく照らされ、屋根が光を返す。
手前の小川を、牛が渡っていく。番の人影もある。人の暮らしの、なんでもない時間である。
事件は何も起きていない。それでも見飽きないのは、光の配分が劇のように組まれているからである。
暗がりは脅かすためではなく、奥の光を際立たせるためにある。
手前の暗と奥の明。この二段構えは、師の絵にもあった。
だが師の絵では、光は枯木や廃墟に落ちた。弟子の絵では、光は屋根と壁に落ちる。
同じ道具立てで、示すものが正反対である。弟子は師の技法で、師と別のことを語った。
所蔵館の記録によれば、右下に署名と年記の断片が残る。読み取れる数字は、1668年を示している。
この年号は、あとでもう一度出てくる。覚えておいてほしい。
師の晩年は、庭園へ
一方の師は、晩年に少し意外な主題を描いた。

高い針葉樹の並ぶ庭園である。人々が木陰を散策し、遠くに館が見える。
木立の影は長く、空気は湿って見える。散策の人々は、着飾った都市の住人だろう。
当時、裕福な都市住民は郊外に別荘を構えるようになっていた。この絵は、そうした趣味を映す晩年の主題と考えられる。
荒野と廃墟を描いた画家が、手入れされた庭を描く。注文主の好みに応えた面もあるだろう。
だが見てほしい。木々は人の何倍も高くそびえ、人影は木陰に小さい。
庭園でさえ、ロイスダールの自然は人を見下ろす側にいる。劇場の緞帳は、ここでも下りていない。
ロイスダールは1682年に没した。三十年あまり、風景ひと筋の生涯だったと伝えられる。
対比を、整理する
九点を振り返って、対比を整理したい。
まず構図である。ロイスダールの画面には、垂直の枯木が立ち、暗雲が垂れる。上下の方向が強い。
ホッベマの画面には、水平の道が延び、積雲が浮かぶ。左右と奥行きの方向が強い。
次に色である。ロイスダールの目印は、倒木の白だった。死んだ木の色が、画面を締める。
ホッベマの目印は、屋根の赤だった。人の住む建物の色が、画面を灯す。
そして水である。師の水は岩を嚙み、弟子の水は車を回す。
空も違う。師の雲は垂れて画面を暗くし、弟子の雲は白く浮かんで画面を明るくする。
人の扱いも違う。師の人物は風景に呑まれる点景であり、弟子の人物は道の住人である。
まとめれば、こうなる。ロイスダールは自然を「劇」として見た。時間が壊していく舞台である。
ホッベマは自然を「住まい」として見た。人が道を歩き、水車を回し、農家に帰る場所である。
同じ森でも、劇場と住まいでは光の当て方が違う。気分の違いの正体は、そこにあると考えられる。
どちらが写実か、と問うても仕方がない。ふたりとも、見たい森を組み立てたのである。
三十歳の、事実上の引退
ホッベマには、よく知られた後日談がある。
1668年、アムステルダムのワイン計量の職に就いたと伝えられる。市中の酒類を測る、安定した勤めである。
そして以後、筆はほとんど止まったと伝えられる。三十歳。事実上の引退である。
《日ざしの中の農場》は、まさにその1668年の作だった。
先ほど覚えてもらった年号が、ここでつながる。
画家として最も澄んだ絵を描いた年に、画家であることをやめていく。理由の詳細は、分かっていない。
ただ、風景画が安く量産される時代だった。絵筆より計量の職のほうが、暮らしは確かだったのだろう。
同じ年に家庭を持ったとも伝えられる。絵を続けたとしても、もう本業ではなくなった。
住まいとしての自然を描いた画家が、暮らしのために筆を置く。皮肉ではなく、筋が通っているのかもしれない。
ホッベマは1709年に没した。以後の四十年あまりは、勤めを本業として生きたと考えられる。
見立て——風景は、組み立てられる
最後に見立てを書いておきたい。
オランダの風景画は、戸外で見たままを写した絵ではない。戸外の素描をもとに、工房で組み立てた風景である。
木、道、水車、廃墟、雲。部品は画家たちのあいだで共有された財産だった。
空の高さも雲の置き方も、工房で決められた。風景は、描かれる前に設計されていた。
絵は安価に量産され、中流家庭の壁に掛けられた。風景は、市民が買える商品でもあった。
目の前の景色を、そのまま写す必要はなかった。買い手が欲しいのは、壁に掛けたい風景だからである。
だからこそ、面白い。同じ部品をどう組むかに、画家の世界の見方が出るからである。
ロイスダールは、時間が壊すものを組んだ。倒木、廃墟、暗雲。
ホッベマは、人が住まうものを組んだ。道、家、水車、晴れ間。
師弟の違いは、腕の違いではない。世界の見立ての違いである。
そしてその見立ては、絵の外の人生とも響き合う。劇を見続けた師と、住まいへ帰った弟子である。
森の入口で
森を歩くとき、ふたつの目がある。
壊れていくものを見る目と、住まわれているものを見る目。
四百年近く前の師弟が、その両方を絵にして残した。
師は劇場の目を最後まで手放さなかった。弟子は住まいの目を選び、やがて絵の外の住まいへ帰った。
どちらが正しいという話ではない。どちらも、本当の森である。
ロイスダールの白い倒木と、ホッベマの赤い屋根。
倒れた白樺から、日の当たる農家まで。九枚を並べ直せば、師弟の静かな問答が聞こえてくる。
ふたつの色を覚えて森の絵の前に立てば、その画面の気分を読み違えることはないはずである。









