目が合う肖像と、合わない肖像——ハンネマン・ブロンズィーノ・モディリアーニほか九点

作者は、館の記録ではバークレーという画家である。
生没年も、経歴も、当サイトの記録には入っていない。
写されている人物のほうが、記録に多く残っている。
題に括弧書きの生没年はないが、名前は特定されている。
九点でいちばん大きい絵である。
机に向かう男が描かれている。
白い髭が胸まで伸びる。
黒い上着を着て、右手にペンを持つ。
机の上には、開いた帳面と、書きかけの紙がある。
左には厚い本が積まれ、その上に小さな置物がある。
指に指輪が光る。
そして顔は、机からこちらへ上がっている。
目が合う。
書く手を止めずに、顔だけ上げた姿勢である。
肖像には、こういう型がある。
仕事の場に人を置き、道具を並べる。
そして、その人が今こちらを見た、という一瞬を作る。
道具は、その人が何者かを示す。
ここでは、ペンと帳面と本である。
第十九回で、持ち物が人の役を示すと書いた。
本を持つ話で見たのと、同じ働きである。
目が、点でしかない場合
最後に、まったく別の作りの一点を置きたい。

掛軸の記録は、寸法を二つ持つ。
描かれた面が28.2×47センチ。
表装を含めると112.5×64.2センチになる。
縦が四倍になる。
上下の裂と軸が、それだけの長さを占めるからである。
第十九回でも、掛軸の寸法に触れた。
高さを示す話で書いたとおり、画面と表装は別に測られる。
横長の画面である。
縦28.2センチ、横47センチしかない。
その真ん中に、人が一人だけ座る。
黒い衣を着て、頭に小さな被り物をつける。
体は横を向き、顔だけ少しこちらへ回る。
顔の大きさは、画面の高さの十分の一ほどである。
目は、短い線が二本引かれているだけだ。
こちらを見ているかどうかは、判断できない。
画面の左右には、朝顔の蔓と葉が薄い緑で描かれる。
花は開いていない。
館の記録によれば、これは俳人の肖像だという。
そして館は、朝顔を詠んだ句を引いている。
しぼんだ朝顔の顔を、笑うべきか泣くべきか、という内容である。
館の記録では、この蔓は句を受けたものと説明されている。
つまり、この一点は顔を写した絵ではない。
人と、句と、季節の草を一枚に組んだ絵である。
肖像という語が、ここまで広い範囲を指している。
顔は、画面のどこに置かれるか
九点の顔の位置も数えた。
顔の中心が画面の上半分にあるものが、八点である。
真ん中より下にあるのは、芭蕉の一点だけだった。
これは、横長の画面だからではない。
その一点でも、人物は画面の中央より少し上にいる。
顔の位置が下がって見えるのは、体が小さいためである。
残る八点は、いずれも顔が上寄りにある。
胸から上を大きく取れば、自然にそうなる。
そして、頭の上には少し余白が残る。
頭が画面の縁に触れている例は、九点に一つもない。
いちばん詰まっているのはモディリアーニの一点で、
それでも髪の上に数センチの空きがある。
顔を縁につけない、という決まりがあるわけではない。
ただ、九点はすべてそうなっていた。
肖像は、顔のまわりに空気を残す。
九点を並べて、数えられたこと
目が合うのは五点、合わないのは四点だった。
支持体を数えた。
布が五点、板が一点、金属板が一点、紙が二点である。
紙の二点は、写真と掛軸だった。
大きさを数えた。
いちばん小さい9.2センチと、いちばん大きい91.4センチ。
その間に、九点が散らばる。
名前が分かる人は三点しかない。
作曲家、俳人、そして画家の母である。
残りの六点は「女性の肖像」「婦人の肖像」とだけ書かれる。
顔ははっきり描かれているのに、誰かが分からない。
前の回でも、同じことが起きていた。
もう一つ、数えておきたいことがある。
九点のうち、口を開けている人は一人もいない。
全員が口を閉じている。
笑っている人もいない。
口の端がわずかに上がる例が二点あるだけである。
肖像の口は、動かない。
長い時間をかけて描かれるのだから、当然ではある。
だが写真の一点でも、口は閉じている。
写真の露光は、絵よりはるかに短い。
それでも、写された人は口を結んでいる。
つまり、これは技法の制約ではない。
肖像とはこういう顔をするもの、という約束である。
その約束は、絵から写真へそのまま引き継がれた。
九点のうち八点が絵で、一点が写真である。
その一点だけを取り出しても、顔つきは変わらなかった。
記録に書かれていないこと
館の記録は、視線の向きを書かない。
書くのは、素材と寸法と番号と、受け入れの経緯である。
目が合うかどうかは、記録の欄にない。
だから、九点を数えるには画像を見るしかなかった。
そして、見ても決められない場合がある。
芭蕉の目は、線が二本あるだけだった。
モディリアーニの目は、焦点が読めなかった。
数えた五点と四点のうち、境目にあるものが二点はある。
数は、そこまで硬いものではない。
それでも、題がすべて「肖像」で揃っていながら、
視線がこれだけ割れることは、数えなければ気づけなかった。
そして、視線を数えるという作業そのものにも限界がある。
目が合うかどうかは、見る位置で変わる。
正面から見れば合い、斜めから見れば外れる絵がある。
館の壁に掛かった状態と、画像で見た状態も違う。
ここで数えた五点と四点は、画像を正面から見た場合の数である。
その条件を書かずに数だけ出すのは、正しくない。
だから、条件を書いておく。
九点とも、館が公開している画像を、同じ大きさに揃えて見た。
その上で、目の向きを読んだ。
九点という数は、結論を出すには少ない。
それでも、割れ方だけは確かに見えた。
次の回では、体のどこで画面を切るかを扱う。
顔だけか、胸までか、腰までか、全身かという問題である。









