同じ写真が、二つの番号に付いている——ダニエル・ハンティントンの写生帖
肖像画家が、夏に描くもの
九点のうち、四点が人、五点が風景である。
人は室内で、風景は屋外である。
そして風景の題には、いずれも土地の名が付いている。
レイク・ジョージ。デラウェア川の東の支流、ウォルトン。コーンウォール。
いずれも、都市から離れた場所である。
年はそろって一八七一年。
夏のあいだに、いくつかの土地を回ったのだろう。
館の記録は、旅程を書いていない。
ただ、同じ帳面の中で場所が移っていることは読める。
肖像画家にとって、風景の写生は本業ではない。
注文が来るのは、人の顔である。
それでも、帳面の半分以上が風景で埋まっている。
なぜかは、記録からは分からない。
夏に仕事が減るからかもしれない。
土地を見ておきたかったのかもしれない。
分かるのは、同じ一冊のなかに両方があるという事実だけである。
そして、人を描くときだけ、帳面を縦に持ち替えている。
持ち替えるという小さな動作が、九点の寸法の欄に痕跡を残した。
同じ題が、二度出てくる
当サイトの一覧で、この帳面の頁を並べてみると、妙なことに気づく。
同じ題が、二回ずつ現れるところがある。
《嵐の王の下、コーンウォール、一八七一年》が二回。
《嵐の王、一八七一年》が二回。
一覧だけを見れば、重複登録に見える。
しかし番号を見れば、gの裏とhの表であり、hの裏とiの表である。
隣り合う面が、同じ題を持っている。
この形は、見開きに描かれた絵の目印になる。
同じ題が二つ並んでいたら、そこは見開きだと分かる。
逆に、題が一つしかない頁は、片面だけで完結している。
《レントン氏の肖像》は一つしかない。
《ブラック山、レイク・ジョージ》も一つである。
ただし後者は、写真を見るかぎり見開きに描かれている。
にもかかわらず、隣の面に同じ題が付いていない。
理由は分からない。
隣の面が公開されていないだけかもしれない。
目録の付け方が、頁によって揺れているのかもしれない。
館の記録は、そこまで説明していない。
規則があり、例外がある。
その両方が、そのまま残っている。
なお、当サイトはこの帳面の頁を、館の番号のまま公開している。
題も、寸法も、出所の行も、館の記録に従っている。
同じ写真が二つの番号に付いているのも、そのままである。
整理し直して一件にまとめることもできるが、そうはしていない。
館の数え方を書き換えると、もとの記録に戻れなくなるからである。
めくる順に、並べ直す
九点を、番号の順に並べ直してみる。
aの表、aの裏。
cの表、cの裏。
gの裏、hの表。
hの裏、iの表。
ggの裏。
こう並べると、帳面をめくっている感覚が戻ってくる。
最初の紙の表に、外套の男がいる。
裏返すと、湖と山が広がる。
二枚飛ばして、腰かけた女性。
裏返すと、川と丘。
さらに進んで、山を足元から見る見開き。
紙を一枚めくると、同じ山を遠くから見る見開き。
そしてずっと後ろで、椅子の男の肖像。
人、風景、人、風景、風景、風景、人。
この往復が、一冊の中に畳まれている。
一点ずつ切り離して見ていると、この往復は見えない。
見えるようにするには、番号を読むしかない。
束の形は、番号に残る
この帳面から、二つのことが分かる。
一つは、面ごとに数えるという方針が、見開きの絵と衝突することである。
衝突したとき、館は絵の側を優先しなかった。
番号は面ごとのまま、写真だけを二つの番号で共有した。
方針を曲げずに、実物のほうを二重に写した。
もう一つは、それでも束の形が読めるということである。
gの裏とhの表が隣り合うと分かるのは、番号の作りを知っているからである。
裏の次は、次の文字の表。
その規則さえ知っていれば、ばらされた頁は頭のなかで綴じ直せる。
見開きは、どこにでもある形ではない
見開きに描くという習慣は、写生帖に特有のものではない。
東アジアの画帖にも、二頁にまたがる絵がある。
版本の挿絵は、ほとんどが見開きで作られる。
一枚の紙を折って綴じるので、折り目が絵の中央に来る。
西洋の写生帖の場合、事情が少し違う。
紙は一枚ずつ綴じられ、開くと二枚が向かい合う。
つまり折り目ではなく、二つの紙の境目が中央に来る。
この境目には、わずかな段差ができる。
鉛筆の線は、その段差で一度切れる。
嵐の王の見開きを拡大すると、稜線が中央でわずかにずれている。
線を引き続けたのではなく、いったん止めて、また引き直している。
それでも山の形はつながって見える。
目が、段差を埋めているからである。
画家は、そのことを知っていて、境目をまたいだ。
一枚の紙に収めれば、山は小さくなる。
二枚に広げれば、横に長い景色が入る。
見開きを使うのは、寸法の問題である。
そして寸法の問題は、目録の単位の問題になる。
十四センチの紙に山は入らない。
だから二枚を使った。
二枚を使ったから、番号は二つになった。
見開きを、どう見るか
読む側にとって、この重複はやや不親切である。
同じ絵が二回出てくると、間違いのように見える。
しかし、一度その理由を知ると、見え方が変わる。
同じ写真の二回目は、紙をめくった、という合図になる。
gの裏を見て、hの表を見る。
そのあいだに、指が紙を一枚めくっている。
紙をめくり、また同じ景色が現れる。
画家は、その景色の前に何日か滞在したのだろう。
嵐の王という名の山を、足元から見て、遠くから見た。
一枚の紙の表と裏で、人と山を描き分けた。
帳面という束は、そういう時間の入れ物である。
番号は、その入れ物を切り分けるための道具にすぎない。
切り分けたあとで、もとの束を思い浮かべること。
写生帖の頁を見るとは、たぶんそういうことである。










