レンブラントは、皺をどう塗ったか——絵具の厚みで時間を示す
家の中にあったもの
破産の手続きでは、家財の目録が作られた。この記録が残っている。
そこに並んでいるものが、なかなか異様である。絵画と素描だけではない。
貝殻、珊瑚、剥製、鎧兜、東洋の織物、楽器、古代の胸像、そして他人の版画。
一室を埋めるほどの品が、種類ごとに並べられていたらしい。当時の言葉でいう「珍品の部屋」に近い。
これらは趣味の道楽であると同時に、仕事の道具でもあった。絵の中の衣装や小道具に、収集品が繰り返し登場する。
聖書の人物に着せる異国風の衣、老人の首に掛ける鎖、卓上に置く杯。手元に実物があれば、質感を確かめながら描ける。
そして買いすぎた。この収集癖が、破産の一因になったとも言われる。

晩年の物語画を見ると、集めた品々の使われ方が変わっているのが分かる。細部を見せるためではなく、闇に沈めるために置かれている。
持っているものを全部描く段階から、ほとんど隠す段階へ。ここでも同じ方向の変化が起きている。
弟子がいた、ということ
彼の作品を語るとき、避けられない事情がある。工房である。
レンブラントは多くの弟子を取った。名前の分かっている者だけでも数十人にのぼる。
弟子は師の様式を学び、師の絵を模写し、師の名で売られる作品を手伝った。当時としては普通の仕組みである。

戸口に肘をつき、こちらを見る若い女性。構図も明暗も、レンブラントの型で作られている。
だが、記録は工房の作としている。師の設計で、別の手が描いたと考えられているわけである。
当サイトにはもう二点、「レンブラントの追随者」と記録された作品もある。老人の頭部と、鶏の羽をむしる老女である。
追随者とは、弟子ですらない場合も含む。様式を学んだ後続の画家の作、という位置づけである。
作者欄の階層については、フェルメールを扱った別のコラムで詳しく書いた。本人、工房、追随者、模倣者。
レンブラントの場合、この判定はとりわけ難しい。弟子が多く、様式が真似しやすく、しかも本人の作風の幅が広いためである。
二十世紀の後半には、大規模な調査計画が組まれ、真作とされてきた作品が次々に外された。数百点あった真作は、いまでは三百点前後に整理されている。
弟子たちは、どこへ行ったか
工房の話をもう少し続けたい。彼の弟子には、のちに名を成した画家が何人もいる。
若くして亡くなったファブリティウス、細密な小画面で人気を得たドウ、宗教画と肖像で成功したボル。
面白いのは、彼らの多くが師の様式から離れていくことである。
厚塗りの暗い画面ではなく、明るく滑らかな仕上げへ。市場が求めたのは、そちらだった。
つまり晩年のレンブラントの様式は、当時としては主流ではない。弟子たちのほうが時代に合っていた。
彼の評価が跳ね上がるのは、十九世紀に入ってからである。粗い筆致が、個人の内面の表現として読み直された。
同じ画面が、時代によって「未完成」とも「深い表現」とも読まれる。評価はそれくらい動く。
作者の名前が動く話は別のコラムで書いたが、様式の評価も同じように動いている。
手はどこにあるか
顔の話が続いたので、手にも触れておきたい。彼の肖像では、手の扱いが独特である。
1659年の自画像では、組んだ手が下辺近くの暗がりに沈んでいる。形はほとんど読み取れない。
《カーネーションを持つ女》でも、花をつまむ指だけが明るく、残りは衣に溶けている。
肖像画において手は、二番目に重要な部分とされてきた。身分や職業を示す小道具を持たせる場所でもある。
クルーエの描いた学者が羽根ペンを持っていたことを別のコラムで書いた。手は情報を載せる台である。
レンブラントは、その手を暗がりへ送る。見せるのは顔と、そこに当たる光だけである。
情報を減らし、視線を一点へ集める。晩年の肖像が強く見えるのは、この整理のためでもある。
もっとも、手を描くのが億劫だったのだ、という身も蓋もない見方もできる。工房の作品では、手が省かれた注文も多かったらしい。
安い注文では手を描かない、という取り決めがあったとも言われる。芸術上の選択と、商売上の都合は、しばしば同じ形をしている。