画家を知る

レンブラントは、皺をどう塗ったか——絵具の厚みで時間を示す

1631年の老人と1659年の自画像。同じ画家が二十八年をはさんで描いた顔を並べると、皺が「線で描かれるもの」から「絵具で盛られるもの」へ変わっている。晩年の粗い筆致を、伝記の物語から切り離して読む。

自画像
レンブラント・ファン・レイン《自画像》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

1659年の顔

ひとりの男が、こちらを見ている。

自画像
黒い帽子、褐色の上着。額と頬に光が当たり、それ以外は暗がりに沈む。組んだ手は、ほとんど闇に埋もれている。レンブラント・ファン・レイン《自画像》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

レンブラント・ファン・レイン、五十三歳のときの自画像である。1659年。

顔を見てほしい。額には深い横皺が三本、眉のあいだにも縦の皺がある。目の下はたるみ、鼻の脇から口へ、太い線が二本落ちている。

肌は一様ではない。頬は赤みを帯び、鼻先はやや充血し、こめかみのあたりは黄ばんでいる。

そして目である。黒目は濡れたように光り、まぶたは重い。こちらを見ているのだが、見返してくるという感じがしない。

疲れた顔、と言ってしまえばそれまでである。だが、この絵の見どころは表情ではなく、その顔がどう作られているかにある。

近づいて見ると、絵具が厚い。皺は線で描かれているのではなく、絵具の高まりと窪みでできている。

つまり皺は「描かれた」というより「盛られた」のである。この作り方が、彼の晩年を決定的に特徴づけている。

二十八年前の顔

比較のために、若い頃の一枚を見ていただきたい。

金の鎖をつけた老人
《金の鎖をつけた老人》1631年。羽根飾りのある帽子、鋼の襟、金の鎖。皺の一本ずつが細い筆で追われている。レンブラント・ファン・レイン《金の鎖をつけた老人》シカゴ美術館蔵

同じ画家が、二十八年前に描いた老人である。ここでも主題は皺の刻まれた顔だが、作り方がまるで違う。

輪郭がはっきりしている。頬の張り、鼻の稜線、眉の毛の一本ずつまでが、細い筆で描き分けられている。

絵具は薄い。板の表面は平らで、光は塗り重ねではなく明暗の対比で作られている。

金の鎖を見てほしい。輪の一つひとつに光が置かれ、留め具の飾りまで読み取れる。鋼の襟も、金属らしい冷たい反射を返している。

これが二十代半ばのレンブラントである。当時の彼は、細部の描写で評判を取った画家だった。

ちなみにこの絵の男は、実在の誰かの肖像ではないと考えられている。老人にそれらしい衣装を着せて描いた、いわば顔の習作である。

こういう作品は当時よく売れた。肖像でも物語画でもなく、「印象的な顔」そのものを商品にする分野があった。

肌の色は、何でできているか

もう一つ、絵具そのものの話をしておきたい。晩年の彼が使った色は、意外なほど少ない。

土から作る褐色や黄土、鉛の白、骨や木を焼いた黒。高価な青や緑は、ほとんど使われていない。

同じ時代のフェルメールが、貴石を砕いた青を惜しみなく使っていたのとは対照的である。

理由の一つは経済的なものだろう。破産を経た画家に、高い顔料を買う余裕は乏しい。

だが、それだけではない。少ない色数のほうが、画面はまとまりやすい。

彼の絵が全体として褐色に見えるのは、褪色やニスの黄変だけが原因ではない。もともと、褐色の系統でほぼ全部を作っている。

そのうえで、明るい部分にだけ鉛白を厚く盛る。すると、少ない色でも光が強く見える。

節約と効果が一致した例と言ってもよい。制約が様式を作ることは、美術ではよく起きる。

何が、変わったのか

二枚を並べると、変化ははっきりしている。整理してみたい。

第一に、絵具の量である。薄く塗る画家から、厚く盛る画家になった。

第二に、細部の扱い。1631年の絵では金の鎖の輪が数えられるが、1659年の絵では上着の襞も手も、形が溶けている。

第三に、光の作り方。若い頃は明暗の落差で立体を作り、晩年は絵具の凹凸そのものが光を受ける。

第四に、距離である。細かく描かれた絵は近くで見るのに向くが、盛り上げた絵は離れないと形にならない。

順に見ると、彼は「近くで見せる画家」から「離れて見せる画家」へ移ったことになる。

これは腕が落ちたのではない。描写の精度で勝負する段階を、彼は早いうちに終えている。

成功と、破産

この変化を、生活の側から見ておきたい。彼の五十年は、かなり起伏が激しい。

1606年、オランダのライデンに生まれた。粉挽き屋の息子である。

二十代でアムステルダムへ出て、集団肖像画で名を上げた。注文が相次ぎ、弟子を取り、大きな家を買った。

画家の妻サスキア・ファン・アイレンブルフ
《画家の妻サスキア・ファン・アイレンブルフ》。1634年から35年ごろに始められ、1638年から40年ごろに完成したとされる。裕福な家の娘で、彼の結婚相手である。レンブラント・ファン・レイン《画家の妻サスキア・ファン・アイレンブルフ》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

サスキアとの結婚は、社会的にも有利な縁組だった。彼女の実家は名家で、画商とのつながりもあった。

だが1642年、彼女は病で世を去る。子どもは一人、ティトゥスだけが育った。

その後の二十年は、金銭の面で苦しい。収集癖もあって支出は大きく、家の支払いが滞る。

1656年、ついに破産の手続きに入る。財産の目録が作られ、絵も、古美術も、家も売られた。

以後の彼は、内縁の妻と息子が作った会社に雇われる形で絵を描いた、と記録されている。自分の名前では商売ができなかったためである。

1659年の自画像は、その少しあとに描かれている。

版で刷る画家でもあった

油彩ばかり見てきたが、彼の収入の一部は版画だった。ここも押さえておきたい。

銅板に針で線を刻み、インクを詰めて紙に刷る。エッチングという技法である。

三人の東方の人物(ヤコブとラバン?)
《三人の東方の人物》1641年。銅版に刻まれた線だけで、衣の襞から地面の草まで作られている。画面は縦14センチほどしかない。レンブラント・ファン・レイン《三人の東方の人物(ヤコブとラバン?)》シカゴ美術館蔵

版画は複数枚が刷れる。彼はこれを商品として売り、同時に実験の場としても使った。

同じ版に手を入れて刷り直すことも多い。線を足し、削り、明暗を変える。刷った時期によって画面が違う。

こうして生まれた各段階を、版画では「ステート」と呼ぶ。収集家は、どの段階の刷りかを気にする。

ここで思い出したいのが、浮世絵の話である。別のコラムで、同じ版から刷られた三枚が別々の時間を過ごしていると書いた。

レンブラントの版画も同じで、原本の一枚は存在しない。しかも彼の場合、版そのものが途中で変わっていく。

油彩では厚みで時間を示した画家が、版画では版を彫り直すことで時間を刻んでいる。手つきは一貫している。

切られた大作

彼の代表作とされる集団肖像画にも、時間の話がある。1642年の、市民自警団を描いた大画面である。

当サイトでは扱っていない作品だが、この記事の主題に関わるので触れておきたい。

十八世紀の初め、この絵は移設のさいに四方を切り詰められた。掛ける場所の壁に収まらなかったためである。

左側からは人物が二人ぶん失われたとされる。いま私たちが名画として見ているのは、切られたあとの状態である。

作品は完成した時点で止まらない、という話はゴッホの《寝室》のコラムでも書いた。褪せる、直される、そして切られる。

四百年を経た絵を見るということは、その履歴も含めて見るということである。

顔が、商品でなくなるとき

破産の前後で、注文の性質も変わっている。

若い頃の彼は、市民団体の集団肖像画や、裕福な商人の夫婦像を手がけた。値の張る、公の仕事である。

晩年になると、そうした大口の注文は減る。かわりに増えるのが、個人の胸像や、聖書の主題の小さな絵である。

カーネーションを持つ女
《カーネーションを持つ女》1660年代の初め。赤い衣の女性が、小さな花を指でつまんでいる。画面の大半は暗がりで、輪郭はほとんど溶けている。レンブラント・ファン・レイン《カーネーションを持つ女》メトロポリタン美術館蔵

この絵の表面を見てほしい。顔と手には厚い絵具が置かれ、衣は絵具を引きずるように塗られている。

赤い衣は、一色ではない。下の層に暗い赤があり、その上に明るい赤が擦りつけられ、さらに黄色みの筆が走っている。

こういう画面は、注文主に喜ばれたのだろうか。当時の記録には、彼の粗い仕上げを批判する声も残っている。

同時代の伝記には、完成していないように見えるという苦情に対し、絵は近づいて嗅ぐものではない、と彼が答えたという話が伝わっている。

逸話の真偽は分からない。ただ、離れて見ることを前提にした絵だという主張が、そこにはある。

絵具に、触れている

技法の面をもう少し見ておきたい。晩年の彼は、筆だけで描いていない。

パレットナイフや、筆の柄の端も使っている。絵具を塗るというより、置き、削り、掻き取る。

明るい部分には、白を多く含む絵具が盛られる。乾くと表面が固く隆起し、実際の光を受けて影を作る。

つまり画面に、本物の凹凸ができる。絵の中の光と、絵の表面に当たる光が、二重になっている。

これは複製では伝わりにくい性質である。画像で見るかぎり、盛り上がりは平らな模様として写る。

美術館でこの種の絵を見る機会があれば、少し斜めから見てほしい。表面が波打ち、光の当たり方で表情が変わるのが分かる。

もっとも、拡大画像には別の利点がある。絵具の粒立ちや、筆の柄で引っ掻いた線を、実物より近くで確かめられる。

見る条件については別のコラムで書いた。厚塗りの絵は、条件の差がとりわけ大きく出る部類である。

家の中にあったもの

破産の手続きでは、家財の目録が作られた。この記録が残っている。

そこに並んでいるものが、なかなか異様である。絵画と素描だけではない。

貝殻、珊瑚、剥製、鎧兜、東洋の織物、楽器、古代の胸像、そして他人の版画。

一室を埋めるほどの品が、種類ごとに並べられていたらしい。当時の言葉でいう「珍品の部屋」に近い。

これらは趣味の道楽であると同時に、仕事の道具でもあった。絵の中の衣装や小道具に、収集品が繰り返し登場する。

聖書の人物に着せる異国風の衣、老人の首に掛ける鎖、卓上に置く杯。手元に実物があれば、質感を確かめながら描ける。

そして買いすぎた。この収集癖が、破産の一因になったとも言われる。

フィレモンとバウキス
《フィレモンとバウキス》1658年。暗い室内に、神を迎え入れた老夫婦がいる。晩年の宗教画では、光は小さく、周囲は深く沈む。レンブラント・ファン・レイン《フィレモンとバウキス》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

晩年の物語画を見ると、集めた品々の使われ方が変わっているのが分かる。細部を見せるためではなく、闇に沈めるために置かれている。

持っているものを全部描く段階から、ほとんど隠す段階へ。ここでも同じ方向の変化が起きている。

弟子がいた、ということ

彼の作品を語るとき、避けられない事情がある。工房である。

レンブラントは多くの弟子を取った。名前の分かっている者だけでも数十人にのぼる。

弟子は師の様式を学び、師の絵を模写し、師の名で売られる作品を手伝った。当時としては普通の仕組みである。

半開きの戸口の若い女
《半開きの戸口の若い女》1645年。所蔵館の記録は「レンブラント・ファン・レインの工房」となっている。レンブラント・ファン・レインの工房《半開きの戸口の若い女》シカゴ美術館蔵

戸口に肘をつき、こちらを見る若い女性。構図も明暗も、レンブラントの型で作られている。

だが、記録は工房の作としている。師の設計で、別の手が描いたと考えられているわけである。

当サイトにはもう二点、「レンブラントの追随者」と記録された作品もある。老人の頭部と、鶏の羽をむしる老女である。

追随者とは、弟子ですらない場合も含む。様式を学んだ後続の画家の作、という位置づけである。

作者欄の階層については、フェルメールを扱った別のコラムで詳しく書いた。本人、工房、追随者、模倣者。

レンブラントの場合、この判定はとりわけ難しい。弟子が多く、様式が真似しやすく、しかも本人の作風の幅が広いためである。

二十世紀の後半には、大規模な調査計画が組まれ、真作とされてきた作品が次々に外された。数百点あった真作は、いまでは三百点前後に整理されている。

弟子たちは、どこへ行ったか

工房の話をもう少し続けたい。彼の弟子には、のちに名を成した画家が何人もいる。

若くして亡くなったファブリティウス、細密な小画面で人気を得たドウ、宗教画と肖像で成功したボル。

面白いのは、彼らの多くが師の様式から離れていくことである。

厚塗りの暗い画面ではなく、明るく滑らかな仕上げへ。市場が求めたのは、そちらだった。

つまり晩年のレンブラントの様式は、当時としては主流ではない。弟子たちのほうが時代に合っていた。

彼の評価が跳ね上がるのは、十九世紀に入ってからである。粗い筆致が、個人の内面の表現として読み直された。

同じ画面が、時代によって「未完成」とも「深い表現」とも読まれる。評価はそれくらい動く。

作者の名前が動く話は別のコラムで書いたが、様式の評価も同じように動いている。

手はどこにあるか

顔の話が続いたので、手にも触れておきたい。彼の肖像では、手の扱いが独特である。

1659年の自画像では、組んだ手が下辺近くの暗がりに沈んでいる。形はほとんど読み取れない。

《カーネーションを持つ女》でも、花をつまむ指だけが明るく、残りは衣に溶けている。

肖像画において手は、二番目に重要な部分とされてきた。身分や職業を示す小道具を持たせる場所でもある。

クルーエの描いた学者が羽根ペンを持っていたことを別のコラムで書いた。手は情報を載せる台である。

レンブラントは、その手を暗がりへ送る。見せるのは顔と、そこに当たる光だけである。

情報を減らし、視線を一点へ集める。晩年の肖像が強く見えるのは、この整理のためでもある。

もっとも、手を描くのが億劫だったのだ、という身も蓋もない見方もできる。工房の作品では、手が省かれた注文も多かったらしい。

安い注文では手を描かない、という取り決めがあったとも言われる。芸術上の選択と、商売上の都合は、しばしば同じ形をしている。

なぜ、老人ばかり描いたのか

もう一つの疑問に触れておきたい。彼は生涯を通じて、老人の顔を描き続けた。

若い頃の《金の鎖をつけた老人》もそうだし、晩年の自画像もそうである。皺のある顔が、繰り返し主題になっている。

理由はいくつか考えられる。まず、市場の需要である。先に触れた「顔の習作」は、老人の顔が好まれた。

皺や髭は、描き手の腕を見せるのに都合がよい。買い手にとっても、技量を確かめやすい。

次に、素材としての面白さがある。皺の刻まれた顔は、光を複雑に受ける。平らな若い肌より、はるかに変化に富む。

そして三つ目に、聖書の主題との相性がある。預言者、使徒、老いた両親。物語画の登場人物に、老人は欠かせない。

だが、それだけではないだろう。晩年の自画像を並べると、彼が自分の老いを、観察の対象として扱っていることが分かる。

同じ顔を、条件を変えて何度も描く。モネが積みわらでやったことを、彼は自分の顔でやっていたとも言える。

悲劇の天才、という物語

もう一つ、気をつけておきたいことがある。彼の生涯には、できすぎた物語が付いて回る。

若くして成功し、妻を失い、破産し、孤独のうちに死んだ天才。十九世紀のロマン主義的な読み方である。

その筋書きに合わせて、晩年の粗い筆致は「苦悩の表れ」と説明されてきた。分かりやすい話ではある。

だが記録を追うと、話はもう少し散文的になる。彼は最後まで注文を受け、弟子を取り、絵を売っていた。

破産も、当時のアムステルダムでは珍しい出来事ではない。市場は投機的で、多くの商人が同じ目に遭っている。

そして晩年の技法は、突然の変化ではない。三十代から少しずつ厚塗りへ向かっており、連続した変化である。

不幸が様式を変えた、という説明は魅力的だが、証明されたものではない。むしろ、市場と技術と加齢が同時に働いた結果と見るほうが妥当だろう。

伝記が絵の見え方を作ってしまうことは、しばしばある。物語を一度外して、画面だけを見てみるのがよい。

時間を、絵具の量で示す

最後に、この記事の見立てを書いておきたい。

晩年のレンブラントがやっていたのは、たぶん「時間を厚みに翻訳すること」だったのだと思う。

若い頃の絵では、皺は形として描かれていた。線の集まりであり、記号である。

晩年の絵では、皺は絵具の量になっている。塗り重ねた層が、そのまま顔の起伏になる。

生きてきた年月を、絵具の堆積で示す。理屈としては単純だが、これを実行できた画家は多くない。

そして自画像には、もうひとつの層が重なる。描いている本人が、描かれている顔と同じだけ年を取っている。

制作の時間と、モデルの人生が、同じ速度で進む。自画像だけが持つ条件である。

彼は生涯におよそ八十点の自画像を残したとされる。油彩、版画、素描を合わせた数である。

それだけの数を並べれば、一人の人間の顔が変わっていく記録になる。連作という言葉が生まれる二百年前に、彼はそれをやっていたことになる。

拡大して、絵具を見る

この記事で見た五枚は、いずれも CC0 として公開されている。拡大して細部を確かめられる。

まず1631年の老人の、金の鎖を拡大してほしい。輪の一つずつに小さな光の点が置かれているのが見える。

次に1659年の自画像の額を拡大する。皺の谷に暗い絵具が溜まり、山の上に明るい絵具が乗っているのが分かる。

同じ画家が、同じ主題を、まったく違う手つきで作っている。二十八年という時間が、そこに見えている。

そして最後に、両方を縮小して並べてほしい。細部が消え、顔の印象だけが残る。

そのとき、若い頃の絵より晩年の絵のほうが、はるかに強く見えるはずである。少ない情報で、より多くを伝えているからだ。

省略の効き方については、浮世絵を扱った別のコラムでも書いた。描く量と伝わる量は、比例しない。

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