波の白は、紙の白か、絵具の白か——ウィリアム・トロスト・リチャーズ
油彩に戻ると、波は一本になる
リチャーズは油彩もやめていない。
1878年ごろには、イギリス南西部のコーンウォールにも渡っている。
同じ時期の現地素描と、翌1879年の油彩が残っており、滞在の跡をたどれる。
海の主題は、国を越えてもほとんど変わらない。岩と、波と、光である。

さらに横長で、2メートル近い。
光は黄色みを帯び、空の中央が最も明るい。
砂浜は右手前で濡れて光り、空の色をそのまま映している。
波は中景に一本。左の水平線に帆船、左下に海鳥が一羽。
この絵は、ワシントンの美術館が1883年に画家から直接買っている。
館の記録には「承認を前提に注文して描かせた」と記されている。
美術館が現役の画家に発注していた時代の記録である。
「承認を前提に」という条件に注目したい。
出来上がりを見てから買うかどうか決める、という取り決めである。
画家は完成まで代金を確保できない。美術館は失敗を引き受けない。
大きな画布を張る決断が、そういう条件のもとで行われている。
この作品の横幅は1.8メートルを超える。展示室の壁を占める寸法である。

こちらは掌に乗る大きさである。
暗い海に白波が四、五本重なり、右奥から雨脚のような灰色が降りている。
小さいのに、水の重さがある。

亡くなる4年前の作品である。
色はほとんど灰緑と白だけになっている。
うねりが一本、手前へ倒れ込み、泡の縁が濡れた砂の上で薄く伸びる。
空は一様な灰色で、雲の形はもう描かれていない。
色が減り、波が減っていく
四点を年代順に並べると、変化が見える。
1876年の水彩は、青緑と白の対比が強い。晴れた日の海である。
1883年の油彩は、光が全体を包む。波は一本になる。
1901年の油彩は、色数がさらに減る。描かれているのは天気のない海だ。
若い頃に葉を一枚ずつ数えた画家が、最後は水と空の二つだけを相手にしている。
これは、対象が「波」から「波が起きている時間」に移ったのだと私たちは考えている。
ただし、本人がそう語った記録は確認していない。作品の年代順から読めることとして書いておく。
海の絵を見るときの、三つの見どころ
ここまでの観察を、見る側の手順に直しておきたい。
一つめ。泡の白がどう作られているか。紙の白か、置いた白か、絵具の厚みか。
水彩なら、白い場所の縁を見るとよい。塗り残しの縁は硬く、置いた白の縁は柔らかい。
二つめ。水平線の高さ。高ければ水の面積が増え、低ければ空の天気が主題になる。
《ニュージャージー海岸にて》は水平線が中央よりやや上にある。だから浜の反射が主役になる。
三つめ。手前の水が透けているか。透けていれば浅く、透けていなければ深い。
三点だけでも、海の絵はかなり違って見えてくる。
帳面が残ったから、方法が見える
もう一つ、条件の話をしておきたい。
この画家の作品は、当サイトで151点を公開している。
そのうち120点が、スケッチブックの一頁である。
完成作は32点にすぎない。数の上では、練習の紙のほうが圧倒的に多い。
普通なら残らないものが残った。帳面ごと美術館に入ったからである。
同じ寸法の紙に同じ主題が何十枚も並ぶ状態は、完成作だけを見ていては想像できない。
方法が見えるのは、失敗と反復が捨てられなかったおかげである。
描けないものを描く手順
まとめると、この画家の方法は三段に分かれる。
現地で、動かない形を写す。帳面で、動く形を反復する。画室で、その二つを合わせる。
写真に頼らずに海を描くための、実務的な手順である。
そして水彩では、白を残す技術と白を置く技術の両方を使った。
もう一つ、この画家の海に共通する点がある。人がいない。
今回の10点のうち、人物が描かれた絵は一枚も無い。
帆船と海鳥は出てくるが、浜には誰も立っていない。
避暑地の海岸を描いていながら、避暑客を描かない。
海を風景としてではなく、現象として見ていたのだと思う。ここは解釈である。
原則から外れているのではない。原則を知っている人が、必要に応じて外している。
スケッチブックが何を担っていたかは別のコラムでも扱った。
暮らしへ——波の写真を、一段階だけねらう
最後に、日常に持ち帰れる話をひとつ。
海に行ったとき、波の写真を撮ってみてほしい。
そのときに、波のどの段階を撮るか、先に一つ決めてみる。
盛り上がる瞬間か、斜面が透ける瞬間か、頂が巻き込む瞬間か、崩れて白くなった後か。
決めてから構えると、同じ海が別のものに見えてくる。
これは19世紀の画家が帳面でやっていたことと、そう変わらない。
うまく撮れなくてもよい。狙いを決めた分だけ、次に見るときの目が変わる。
海の絵を前にしたときにも、同じ問いが使える。この画家はどの段階を選んだのか。
選んだ理由が分かると、絵の前に立っている時間が伸びる。
もう一つ。同じ場所を、時間をずらして二度撮ってみる。
同じ岩、同じ角度で、朝と夕方。画家が何度も同じ海岸に戻った理由が、少し分かる。
飾るときは、白の多い海の絵は、暗い色の壁に掛けると泡が立ってくる。
一枚とじっくり向き合う手順はこちらのコラムにまとめた。









