画家を知る

肖像は、家の資産だった——ジョン・シンガー・サージェント

題名に並ぶ「夫人」の文字は、肖像画が家の資産だった時代の名残りである。等身大の白いサテンから、醜聞と転居、注文をやめた後の静かな絵まで。サージェントの九枚で、19世紀の肖像画という商売の成立から店じまいまでを見る。

マーガレット・スタイヴサント・ラザファード・ホワイト(ヘンリー・ホワイト夫人)
ジョン・シンガー・サージェント《マーガレット・スタイヴサント・ラザファード・ホワイト(ヘンリー・ホワイト夫人)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

白い服が、画面の主役である

一枚の肖像画から始めたい。

マーガレット・スタイヴサント・ラザファード・ホワイト(ヘンリー・ホワイト夫人)
ジョン・シンガー・サージェント《マーガレット・スタイヴサント・ラザファード・ホワイト(ヘンリー・ホワイト夫人)》1883年。油彩・画布。縦225.1センチ、横143.8センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ジョン・シンガー・サージェント《マーガレット・スタイヴサント・ラザファード・ホワイト(ヘンリー・ホワイト夫人)》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

縦225.1センチ。人が実物より大きく見える画面である。

見上げる位置に顔が来るよう、設計されている。

これは階段や広間の壁のための寸法である。

家の中で、絵が一番よい場所を占める前提で描かれている。

若い女性が立っている。白と象牙色のサテンのドレス。

長い裾が床にたたまれ、布の反射が画面の下半分を光らせる。

右手は畳んだ扇を持ち、左手は金色の長椅子に軽く触れる。

背景は金褐色のカーテンで、人物のための舞台のように整えられている。

顔は小さく、布は大きい。

まず布を描き、布で人を語る。そういう配分の絵である。

サテンの白は、よく見ると白だけでは塗られていない。

灰色、象牙色、薄い金色。反射のたびに色が変わる。

布の光を数種類の色で組み立てる、この手際がこの画家の署名である。

そして題名を見てほしい。《ヘンリー・ホワイト夫人》。

描かれた本人の名より先に、夫の名が来る。

この題名の形式こそ、今回の主題である。

なぜ肖像画は、こんなに大きいのか。

なぜ女性の肖像が、夫の名前で呼ばれるのか。

そしてこの種の絵は、どういう経路で美術館に来たのか。

一人の画家の九枚で、肖像画という商売の仕組みを見ていきたい。

九枚はワシントンとシカゴの二館に分かれて所蔵されている。

いずれも公開画像で、布の筆致まで拡大して確かめられる。

順路は年代順である。1878年の浜辺から出発する。

肖像画は、商売だった

作者はジョン・シンガー・サージェント。

1856年、アメリカ人の両親のもと、イタリアのフィレンツェで生まれた。

育ちはヨーロッパ各地。両親は各地を移り住み、息子は美術館を教室にして育った。

パリでは画家カロリュス=デュランに学んだ。

この師の教えは実践的で、下描きを重ねず、いきなり筆で形を置く訓練を課したと伝えられる。

サージェントの速い筆は、この訓練の産物である。

そして20代で、肖像画家として売り出した。

19世紀後半、写真はすでにあった。

肖像写真館は各都市にあり、記念の一枚は誰でも撮れた。

それでも上流階級は、等身大の油彩肖像を注文し続けた。

写真は小さく、白黒で、誰にでも撮れる。

油彩は大きく、色があり、一流の画家は一人しかいない。

希少さそのものが、注文の理由だった。

加えて、油彩肖像には解釈が入る。

姿勢を決め、衣装を選び、光を設計する。そこに写真にない「作り込み」の余地がある。

似せることは前提で、その先の見せ方に金が払われた。

肖像画は記録ではなく、格式の調度だったからである。

客間に掛かる大きな画布は、家の財力と趣味の証明書だった。

サージェントは、その市場の頂点に立った画家である。

料金は高額で、注文は途切れず、モデルは大西洋の両岸から来た。

貴族、外交官、実業家、新興の富豪。

旧世界の家柄と新世界の財産が、同じ画家の前に並んで順番を待った。

サージェント自身は、そのどちらでもない。

国籍はアメリカ、生まれはイタリア、商売はパリとロンドン。

どこの社会にも属しきらない画家だから、どこの顧客にも仕えられた。

つまり彼の肖像画は、芸術であると同時に、取引の記録である。

題名に残る「夫人」「嬢」の形式は、その取引の名残りにほかならない。

肖像の前に、風景があった

出発点を見ておきたい。

漁に出る
ジョン・シンガー・サージェント《漁に出る》1878年。油彩・画布。縦78.7センチ、横122.9センチ。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ジョン・シンガー・サージェント《漁に出る》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

フランス北西部、ブルターニュの浜である。

干潮の砂浜が空を映し、貝を採る女たちと子どもが点々と歩く。

右奥には灯台。空は大きく、光は湿って明るい。

1878年、サージェント22歳の作である。

この年、彼はこの主題の大作をパリの官展サロンに出品し、若手として注目された。

本作はその構想に連なる一枚で、所蔵記録によれば1917年に美術館が購入している。

肖像画とは入り方が違う。家を経由せず、市場から直接、公共の壁に来た絵である。

人物は小さく、匿名で、風景の一部である。

注文主はいない。売るために描き、腕を示すための絵である。

牡蠣を採る女たちは、日銭のために浜へ出る。

その姿を、画家は逆光の白い空で包み、労働を光の主題に変えた。

若い画家の前には、二つの道があった。

こうした情景画を売り続けるか、肖像の注文を取るか。

彼は後者を選んだ。理由は単純で、そちらの方がはるかに実入りが良かった。

ただし、風景と人物群像で鍛えた「その場の光を拾う目」は、肖像に持ち込まれた。

濡れた砂浜の反射と、サテンの反射は、画家にとって同じ問題である。

光る面をどう塗るか。この一点で、浜辺の絵と客間の絵はつながっている。

この連続性を頭に置いて、次のページの注文肖像を見てほしい。

なお、浜辺の絵の女たちにも名前はない。

名前のない労働の絵から、名前だけが看板になる肖像へ。

若い画家は、名前の市場へ足を踏み入れたのである。