花の名が、春の代わりをする——ヒード・陳洪綬・ベローズほか九点
春と題した絵は、九点のうち三点しかない。残りは林檎、桃、梅と、木の名前だけで季節を告げる。東アジアは一枝で、西洋は籠に山盛りで。数えると、この九点に咲いた桜はなく、桜の字が出るのは実を並べた図譜だけ。梅は英語の記録でプラムと書かれていた。

一枝の花が、机の上にある
こげ茶色の卓の上に、花の付いた枝が一本、立てかけてある。
花びらは白く、つぼみは濃い桃色をしている。
若い葉が、花のあいだから伸びはじめている。
背景は、飾りのない暗い壁である。
卓の上には、散った花びらが一枚落ちている。
白い花びらと桃色のつぼみは、一目見れば、桜かと思う色である。
だが、題は《林檎の花》である。
果樹の花は、こんなふうに互いによく似ている。

描いたのは、アメリカの画家ヒードである。
館の記録では、長い画歴のなかで百五十点ほどの花の静物を描いた。
そのなかでも、これは飾りをそぎ落とした一枚だという。
一本の枝と、卓と、壁。
花瓶さえない。
切り口を下にして、枝はじかに立てかけられている。
それだけで、画面は春になっている。
画面の左下には、署名と1873の年記が入っている。
来歴の欄によれば、1878年までにはクリーヴランドの収集家の手にあった。
その遺贈で、1915年に館へ入っている。
描かれてから五年のうちに買われ、百五十年近く同じ町にある勘定になる。
付記には、画家の暮らしぶりも書かれている。
花を摘んで束ね、朝食の食卓に飾るのを楽しみにしていたという。
一つの主題だけを集めた収集家の回で見たように、アメリカの静物画は熱心に集められてきた。
この一枝も、そうして館に入った一枚である。
さて、ここで考えたいことがある。
この絵のどこにも、春という字はない。
暦も、気温も、描きようがない。
それでも、花の付いた枝を見れば、春だと分かる。
季節は、花の名前で書いてある。
では、どの花が春を受け持ってきたのか。
桜か、梅か、それとも別の花か。
九点を並べて、花の名前を数えてみる。
桃が受け持つ春と、梅が受け持つ春
次の一枝は、中国の画帖から来た。

太い枝が画面を斜めに横切り、白い桃の花が咲いている。
枝の上には、丸い体の小鳥が一羽とまっている。
花びらの白には、うっすらと輪郭が引かれ、葉は淡い緑に塗り分けられている。
鳥は目を細くあけて、花のほうへ首を伸ばしている。
明代の終わりを生きた画家、陳洪綬の筆である。
館の記録では、二十枚からなる画帖の一葉だという。
山水も人物も花も入った、晩年の画帖である。
来歴の欄には、清の高官、翁同龢の旧蔵とある。
その子孫から、1979年に館が買い入れた。
古人に倣う、と題にあるとおり、昔の絵に学んだ画風で描かれている。
銘の欄には、皇帝徽宗に倣って描き、人に贈ったと読める句が写されている。
晩年の陳洪綬は、画面の中のものを小さく描いた。
世界を縮めて手元に置く、庭や盆石のような見方だと記録は読む。
明の滅亡を生きた人々の、縮こまった暮らしの反映だという読みも添えられている。
小さな春の枝の後ろに、大きな時代の影が差している。
それでも、枝の花と小鳥だけを切り取れば、画面は静かで晴れやかである。
春の絵は、描かれた事情まで抱えて明るい。
桃は、中国の絵で春を受け持ってきた花である。
桃源郷の伝説が示すように、春の景色のしるしとして長く描かれてきた。
同じ東アジアでも、日本の絵では、その席にまず梅が座る。
土地が変われば、春の花の顔ぶれも入れ替わる。

縞の着物の女性が、笠をかぶり、梅の木のそばに立っている。
梅の枝は、細かい花を付けて、女性の足元から画面の縁まで伸びる。
紙の上部には歌が摺られ、右下には柳川重信の署名がある。
背後には、藤の枝をかつぐ娘の絵が掛かっている。
大津絵の藤娘である。
大津絵は、街道の土産として売られた素朴な絵である。
その絵の人物に町の女性をなぞらえる趣向で、揃いものが組まれている。
館の記録では、女性を大津絵の人物に見立てた揃いものの一枚だという。
踊りの型に由来する主題であることを、後ろの絵が示しているとある。
これは摺物という種類の版画である。
仲間うちや歌の会で配るために、手間をかけて摺られたものだという。
売り物の錦絵とは、作られ方が少し違う。
多色摺の技法そのものは、錦絵の誕生を扱った回で見たとおりである。
この一枚には、春の花が二つ入っている。
立っている女性のそばには梅、掛かっている絵には藤。
梅は早春の花、藤は春の終わりの花である。
一枚の紙の上で、季節がゆるやかに幅を持っている。
ここで、桜と梅の使い分けにも触れておきたい。
日本の春は、梅に始まり、桜で盛りを迎える。
梅は寒さの残るうちに、香りとともにほころぶ花である。
桜は暖かさとともに一斉に咲き、数日で散る。
だから正月の飾りや新春の絵には梅が置かれ、花見の絵には桜が咲く。
摺物は仲間うちに配る紙だから、年の初めの句や歌と結びつきやすい。
梅がこの紙に呼ばれたのは、そういう役回りの違いからだと考えられる。
梅は、器にも住む
梅の受け持ちは、紙の上だけではない。

高さ8センチに満たない、四角い小さな容れ物が二つ。
藍色の地に、白い梅の花が一面に咲いている。
煎茶のための茶入である。
作ったのは、京都の陶工、青木木米である。
館の記録では、江戸後期の京焼を代表する三人の名工の一人に数えられる。
料理屋の家に生まれ、陶工であり、書家であり、画家であり、学者でもあった。
中国の焼き物に倣った磁器を得意にしたという。
とくに、煎茶の道具を多く手がけたとある。
藍で下絵を描くこの技法は、染付と呼ばれる。
字のとおり、染めるように付ける、の意だと記録は説明する。
白い素地に藍の梅と、藍の地に白抜きの梅。
二つの茶入で、地と花の関係が反転して見えるのも楽しい。
底には、藍で署名が入っている。
記録には、器を包む絹の袋や、箱書きのことまで書かれている。
袋は細かい文様の絹で、飾りと保護を兼ねるという。
外箱のふたには、木米が箱に字と絵を入れたことが書き付けられている。
内箱のふたには木米自身が署名し、中国の杭州の湖の絵を描いたとある。
ふたの裏には、かつての持ち主の署名と印まで残る。
小さな茶入一対に、これだけの記録が付いて回る。
器と袋と箱が、まとまって一つの作品なのである。
梅の文様は、季節を問わず使われる。
それでも、湯を注ぐ手元に早春を呼ぶ図柄であることは変わらない。
絵のなかの春は、こうして道具の上にも住みつく。
ところで、この茶入の題を英語の記録で見ると、面白いことがある。
梅の花は、プラムの花と書かれているのである。
プラムと梅の、あいだ
プラムの語で集めると、こういう紙も挙がってくる。

枝に、青紫の実が三つぶら下がっている。
下には、もいだ実と、割った実と、種が並ぶ。
画面の隅には、小さな白い花も描かれている。
フランスの植物画である。
実の姿を正確に伝えるための、図鑑のような水彩だ。
枝ぶりや葉の付き方まで、観察の目で写し取られている。
記録は作者の名と年と技法だけの、短いものである。
寸法の欄も空いている。
版画クラブからの寄贈で、ある人の追悼として館に入ったことだけが分かる。
これは春の絵ではない。
実がなっているのだから、季節はむしろ夏から秋である。
それでも挙がってきたのは、梅とスモモが英語では同じプラムだからである。
日本語は、梅と桜と桃とスモモを別の名で呼び分ける。
英語の記録では、その区別がプラムやチェリーの語にまとめられてしまう。
花の名前で季節を書き分ける文化と、そうでない文化がある。
言葉で絵を集めると、その継ぎ目がこうして見えてくる。
この一枚は、九点のなかの物差しとして残しておく。
区別の細かさは、その花への関心の深さでもある。
雪の呼び名が多い土地は、雪をよく見ている土地である。
花の名前を呼び分ける絵の伝統は、花ごとに別の季節と別の意味を託してきた。
ここまでの五点を数えると、花の名前が題に入ったものが四点ある。
林檎、桃、梅、そしてスモモ。
春という字は、まだ一度も題に現れていない。
名前の分かる花は、それだけで季節の証明になるからである。
後半の四点で、事情は逆転する。
春を、山盛りにする
東アジアの三点は、枝の一本や文様で春を示した。
西洋の春は、もっと物量で来る。

暗い背景の前に、花が山と積まれている。
館の記録では、シャクヤク、鉢のアジサイ、籠のライラックが数えられている。
奥にはゼラニウムが立ち、花は手前へあふれ落ちる。
一メートルを超える、大きな静物画である。
描いたのは、二十四歳のモネである。
署名の脇には、64の年記がある。
館の記録では、画業が実り始めた最初の年の作だという。
のちに移ろう光の画家になる人が、まず花を数え上げるように描いた。
ほとんど科学のような正確さ、と記録は評している。
それでいて、葉や花びらの上で光が躍る様子は、すでに勢いのある筆で書かれている。
移ろいやすいものへの関心は、この早い一枚にもう表れていると記録は読む。
暗い背景から花を浮かび上がらせる構図が、新鮮さのもとだともある。
来歴の欄には、兄レオンの手元にあったことが書かれている。
家族が持ち続けた、若い日の大作だったことになる。
館へ来たのは、1953年である。
そして付記には、画家自身の言葉が伝えられている。
画家になれたのは、たぶん花のおかげだ、という一句である。
睡蓮の池にたどり着く人の出発点に、切り花の山があった。
枝ではなく、籠と鉢で春を運ぶやり方については、花瓶画の四百年を数えた回でも見た。
集めて、盛って、あふれさせる。
一枝のヒードとは、正反対の春である。
桜は、実になってから来た
ここまでの春は、どれも咲いている花だった。
咲いたあとのことは、まだ画面に出てきていない。

三本の枝が、上下に分けて並べられている。
上の枝には、黒く熟した実がひとかたまり。
下の左には、白から桃色へ移る実が、割ったものと一緒に置かれる。
下の右には、赤い実が細い柄でぶら下がっている。
葉は、表と裏の両方が見えるように描き分けられている。
背景は、上半分が生成り、下半分が焦茶に塗り分けられている。
黒い実は明るい地に、淡い実は暗い地に置かれた。
実の色が沈まないように、地の色のほうを変えてある。
図譜の作りが、そこに出ている。
下の縁には、飾り枠の中に版の番号と刊記が刷り込まれている。
館の記録では、これは1812年の図譜《ポモナ・ブリタニカ》の一葉である。
ポモナは、果樹と庭と果樹園をつかさどるローマの女神の名だという。
イギリスの田舎紳士のための、果実を見分け分類する手引きとして作られた。
図の元になった実の多くは、ハンプトン・コートとケンジントンの王室庭園から来たとある。
一図につき一種の果実を、しばしば実物大で載せた。
花と葉も、細かく描き込んだという。
色刷りに手彩色を重ねたこうした植物図譜は、当時の教養ある蔵書に欠かせないものだった。
豆知識の欄には、この果実がイギリスへ入った由来まで書かれている。
大陸で味を知った王が、国へ入れるよう命じたのだという。
さて、ここまでの八点に、桜の花は一度も咲かなかった。
その桜の字が、この一葉でようやく題に現れる。
ただし、花ではなく実の名としてである。
しかもこの葉には、花のほうが描かれていない。
春の花を集めていくと、いちばん名の通った春の花だけが、するりと抜けていく。
そして抜けた先で、実になって待っている。
花の絵は、その先が何になるかを見せない。
実の絵は、その前が何だったかを見せない。
一本の木を、絵は二度に分けて描いてきたのである。
花のない春も、ある
残る二点には、花が見当たらない。

七人が、こちらに背を向けて立っている。
そのうち四人が、傘を差している。
一人は外套を頭からかぶり、顔が見えない。
つばの広い帽子の男は、肩に布を巻きつけている。
足元には、犬が一匹いる。
右のほうは、水辺らしい明るさで開けている。
紙の色がそのまま地の色で、茶のインクだけで描かれている。
雨は、線では描かれていない。
差した傘と、かぶった外套と、重そうに垂れる布だけが、雨を言っている。
館の記録では、ヴェネツィアの画家ドメニコ・ティエポロの素描である。
18世紀のフレスコの担い手だが、今日いちばん知られているのは素描のほうだという。
日常の細部を織り込んで練り上げた、物語の素描である。
《子どものための気晴らし》と呼ばれる104枚の連作がある。
主役は、鉤鼻で猫背の、腹の出た道化プルチネッラである。
館の記録では、この一枚もその連作の一葉で、館には九枚があるとある。
豆知識の欄では、この場面にも道化が二人まぎれ込んでいると書かれている。
左の、外套を頭からかぶった人物。
右の、傘を差した人物である。
七人はあてもなくさまよっている、と記録は読む。
紙の右下には、茶インクの署名がある。
さて、この一枚の春は、花ではなく天気である。
驟雨、つまりにわか雨は、春の天気の名でもある。
冬の雨でも夏の夕立でもないと、題が決めている。
だが画面には、春を示す花も芽も一つもない。
雨だけが、季節を名乗っている。
言いかえれば、傘を持って出た人の恰好が、季節の証言になっている。
もう一点も、人の姿で春を示す。

高い木々の下の道を、着飾った二人の女性が歩いてくる。
一人は黒い服、一人は明るい柄の服で、二人とも話に夢中である。
後ろでは男たちが笑い、一人が振り返っている。
木々の幹は細く、梢はまだ薄い。
黒一色の石版画で、花はどこにも咲いていない。
それでも題は、春のセントラルパークという。
館の記録では、都会の公園は階級の違う人々が行き交い、見合う場所だった。
この二人の装いは流行のものだが、階級までは読み取れないという。
連れもなく、話に夢中で、振り返る男たちを気にも留めない。
当時の若い都会の女性の、自立ぶりを体現していると記録は読む。
手元の毛皮のマフは、大ぶりで、上等の品だとある。
マフは寒さの道具である。
それを持ったままの外出だから、まだ肌寒い季節なのかもしれない。
服装についても、記録は時代の事情を書き添える。
1921年には、流行を写した既製服が誰にでも買えるようになっていた。
装いだけでは、身分が読めなくなった時代だという。
だから、行き交う人々は互いをよく見た。
公園は、その見合いの舞台だった。
ここでの春は、花ではなく、人の出足で示されている。
冬のあいだ縮こまっていた人々が、外へ出て歩き出す。
公園へ人が出てくること自体が、季節の便りなのである。
数えて、分かったこと
九点の花の名前を、ここで数える。
梅が二点、桃が一点、林檎が一点、スモモが一点。
見立ての藤を足せば、咲いている花は五種類になる。
そして、咲いた桜は一点もない。
題に桜の字が出るのは、実を並べた図譜の一葉だけだった。
日本の春の花といえばまず桜を思うのに、花のほうは来なかった。
集め方のせいだと考えられる。
九点は、春や花の語を手がかりに記録から集めた。
桜の絵は、たいてい桜と題に書かれる。
春という広い語の網には、かえってかからないのかもしれない。
題も数えておく。
題に春の字を持つのは、九点のうち三点である。
モネの花、ティエポロの驟雨、ベローズの公園。
残る六点は、林檎や桃や梅や桜桃という、木の名前だけで季節を伝える。
春と書かずに春を描くほうが、実は多数派だった。
見せ方も数えられる。
枝の一本で見せるのが二点、文様が一点、見立ての人が一点。
図譜の板が二点、山盛りが一点、天気が一点、人の出足が一点。
東アジアの三点はどれも枝と文様と見立てで、天気の春も人出の春も西洋にしかない。
花の色も見ておく。
ヒードの林檎、陳洪綬の桃、木米の梅、ミシェルの小さな花。
九点のうち四点で、花は白かった。
春の花と聞いて思い浮かべる色より、絵のなかの春は白い。
白い花は、暗い背景でも藍の地でも、よく浮かび上がる。
絵に選ばれやすい色だった、ということかもしれない。
ただし、これはこの九点の話にすぎない。
五種類の花も、四対五の比率も、集め方を変えれば動くだろう。
春の絵の全体を数えたわけではない。
それでも、一つだけ確かなことがある。
九点のうち六点までが、花を手がかりに春を告げていた。
残る三点は、実と、雨と、人の出足だった。
暦の絵も、温度計の絵もなかった。
芽吹きや雪解けで春を示した絵も、この九点にはなかった。
絵にとって春とは、まず花のことなのである。
そして花は、国も画材も選ばない。
油彩にも、木版にも、磁器にも、同じ顔で咲いていた。
咲いた桜の不在は、桜の側から言い直すこともできる。
桜は、春の代名詞でありすぎて、春の代表として呼ばれる必要がないのだ。
呼ばれなくても、桜の絵は桜の名前で立っていられる。
最後に、記録に残らないことを一つ。
ヒードの林檎の枝は、切られて卓に置かれた瞬間の姿である。
あの花が実を結んだかどうかは、誰も知らない。
モネの籠のライラックも、摘まれた日の夕方にはしおれ始めたはずである。
ブルックショーの実だけが、花のその先を、別の木で見せてくれる。
春の花は、どれも数日で終わる。
絵のなかでだけ、散りかけの花びらが、卓の上で止まっている。
春を描くことは、いちばん短い季節を、いちばん長持ちさせることでもある。
次に春の絵に出会ったら、まず花の名前を確かめてみてほしい。
春という字がなくても、名前の分かる花が、きっとどこかに咲いている。


