作品を知る

立つとは、倒れないことである——マルティーニ・エイキンズ・ヴィシュヌ像ほか九点

人が立つとき、体重は小さな足の裏に乗る。少しでも外れれば倒れる。だから立つ姿は静止ではない。九点で、体重の掛け方を測りたい。片脚に寄せる型と、左右対称の型で、時間の見え方が変わる。立つの語は、動物にも器の脚にも使われていた。

立つ男性像
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《立つ男性像》クリーヴランド美術館蔵

片方のつま先だけが、地面に触れている

小さなブロンズの像がある。

高さ31センチ。

裸の男が、まっすぐ立っている。

正確に言うと、まっすぐではない。

体重は、左の脚にかかっている。

その脚は、床にしっかり着いている。

右の脚は、膝がわずかに曲がる。

そして、右足はつま先だけが地面に触れている。

腰は、左が高く、右が低い。

肩は、その逆に傾く。

両腕は体から少し離れ、手は開かれる。

顔は左を向く。

台は、葉を編んだ輪の形をしている。

立つ男性像
フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《立つ男性像》1500年ごろ。館の記録では、ブロンズ。全体31×16.5×8センチ。番号は1947.509。クリーヴランド美術館蔵。フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ《立つ男性像》クリーヴランド美術館蔵

材料はブロンズである。

粘土や蝋で原型を作り、型を取り、金属を流す。

小さな像でも、この工程は変わらない。

奥行きは8センチと記録されている。

高さ31センチに対して、四分の一ほどだ。

つまり、前後には薄い。

腕を横に開いているので、幅は16.5センチある。

正面から見ることを想定した形に見える。

館の記録は、この姿勢を説明している。

体重を左脚に置き、右脚を曲げる。

動いているかのように見せる型だという。

そして、古代から受け継がれた形だと書かれている。

台になっている輪は、勝利を示す葉の輪だとも記される。

これは館の説明である。

こちらで確かめられるのは、つま先だけが着いている、という事実だ。

前の回まで、顔と、体の部分を見てきた。

ここからは、姿勢を見る。

まず、立つことである。

九点を選ぶとき、記録に立つの語があるものを拾った。

すると、人だけでなく、動物と器が混じった。

立つとは、倒れないことである

立っている状態を、少し分解したい。

人が立つとき、体重は足の裏にかかる。

足の裏の面積は、体全体に比べて小さい。

その小さな面の上に、重心を乗せ続ける。

少しでも外れれば、倒れる。

だから、立っているというのは、静止ではない。

絶えず調整している状態である。

絵や彫刻は、その一瞬を止める。

止めたとき、どの瞬間を選ぶかで見え方が変わる。

両脚に均等に体重を置けば、硬く見える。

片脚に寄せれば、動きが出る。

立つ男性裸体モデルの写真
トマス・エイキンズ《立つ男性裸体モデルの写真》1883年ごろ。館の記録では、ガラスの陰画から作った鶏卵紙の印画。一枚の画面は8.2×2.9センチ。番号は1997.131。クリーヴランド美術館蔵。トマス・エイキンズ《立つ男性裸体モデルの写真》クリーヴランド美術館蔵

台紙に貼られた状態で、館に入っている。

館の記録は、台紙を含む寸法も書いている。

35.6×45.7センチである。

一枚の画面は8.2×2.9センチだから、七枚並べても横は二十センチほどだ。

台紙のほうが、ずっと大きい。

余白を広く取って貼られている。

七枚の写真が、横に並んでいる。

同じ人物が、少しずつ向きを変えて写る。

いちばん左は、横を向いている。

次は、やや斜め。

中央あたりで、正面になる。

そこからまた向きが変わり、いちばん右は後ろ向きに近い。

背景には、板を並べた壁がある。

床には、目印らしい線がある。

一枚の画面は、縦8.2センチ、横2.9センチしかない。

細長い。

館の記録によれば、この作者は絵のために写真を使った。

体の作りを正確に描くための資料だという。

そして、仲間と一緒に撮影を始めたと書かれている。

これは館の説明である。

こちらで確かめられるのは、同じ人が回転して写っている、ということだ。

立つ姿を、七つの角度から記録している。

彫刻を作るなら、この七枚があれば足りる。

第十九回で、馬は横から見なければ馬に見えないと書いた。

馬の向きの話では、一つの角度が選ばれていた。

こちらは、角度を選ばない。

全部を撮って、あとで選ぶ。

七枚の写真が示すもの

エイキンズの一点に、もう一度戻りたい。

七枚が横に並ぶ形は、この時代の写真としては珍しくない。

同じ対象を、条件を変えて並べる。

そうすると、比べることができる。

一枚では分からないことが、並べると分かる。

たとえば、正面と背面で肩の見え方がどう違うか。

腕を下ろしたとき、手はどこに来るか。

腰の高さは、向きによってどう変わるか。

絵を描く人にとって、これは実用の資料である。

記憶や想像で描くより、確かである。

そして、人を長時間立たせておく必要もなくなる。

写真を撮って、あとで見ればよい。

館の記録は、そのことを「絵のための視覚の助け」と書いている。

つまり、この七枚は作品ではなく道具として作られた。

道具として作られたものが、いま作品として館にある。

これは、写真の記録によくあることだ。

第十二回で、素材と用途の関係を扱った。

用途が変わると、同じ物の扱いが変わる。

台紙に貼られ、余白を広く取って保管されている。

その扱い自体が、作品としての位置を示している。

そして、七枚のうち一枚だけを取り出すと、意味が変わる。

比べるための並びが、そこで失われるからである。

館は、七枚を一点として数えている。

第十七回で扱った、一点の単位の問題がここにも出ている。

立つ姿を、紙の上で試す

立つ女性裸像
アーサー・ボーウェン・デービス《立つ女性裸像》1882年から93年。館の記録では、褐色の簀の目紙に黒のクレヨンと白チョーク。紙の一部は変色している。41.2×30.3センチ。番号は1922.5558。シカゴ美術館蔵。アーサー・ボーウェン・デービス《立つ女性裸像》シカゴ美術館蔵

制作年に、十一年の幅がある。

1882年から93年、と記録は書く。

素描には、年記のないものが多い。

だから、年は活動の時期から推定される。

第十四回で、年の欄の留保を扱った。

幅のある年は、記録が誠実であることの印でもある。

褐色の紙に、人物が立っている。

体は正面を向き、顔は左を向く。

右脚に体重が乗る。

左脚は、前へ少し出て、膝が曲がる。

腕は体の後ろに回されている。

輪郭は、白いチョークで起こされている。

暗い部分は、黒いクレヨンで塗られる。

紙の褐色が、中間の明るさになる。

紙の中央あたりに、色の違う四角い部分がある。

館の記録は、紙の一部が変色していると書く。

長く額に入っていて、見えていた部分だけ日に焼けたのだろう。

隠れていた縁が、もとの色を保っている。

つまり、この色の差は、保管の跡である。

第十二回で、保存状態を扱った。

作品の表面には、置かれてきた歴史が残る。

姿勢に戻りたい。

この一点も、片脚に体重を乗せている。

冒頭のブロンズと同じ型である。

四百年近く離れているのに、立ち方が同じだ。

タオルを持って立つ裸婦
エドガー・ドガ《タオルを持って立つ裸婦》1891年から92年。館の記録では、リトグラフ。紙全体37×25.5センチ。画面28.4×15.2センチ。番号は1942.84。クリーヴランド美術館蔵。エドガー・ドガ《タオルを持って立つ裸婦》クリーヴランド美術館蔵

館の記録は、紙全体と画面の寸法を分けて書いている。

紙が37×25.5センチ、画面が28.4×15.2センチ。

画面の横幅は、紙の六割ほどしかない。

余白が広い。

版画では、この余白の扱いが問題になる。

切ってしまう持ち主もいれば、残す持ち主もいる。

前の回で見た版画は、紙が裁断されていた。

こちらは、余白が残っている。

白い紙に、黒い線と面で人物が作られている。

頭は暗い塊で、髪だと分かる。

上半身は前に傾く。

背中の線が、大きな弧を描く。

体の前に、布が垂れている。

その布は、線だけで示される。

脚は、細い線で示され、下のほうは消えていく。

床は描かれていない。

つまり、立っている場所が示されていない。

それでも、立っていると読める。

背中と腰の傾きから、そう見える。

体の下が消えているのに、倒れているようには見えない。

これは、少し不思議なことである。

立っていることは、足で示さなくても伝わる。

背骨の傾きと、肩と腰の関係で伝わる。

動かないことが、条件になる立ち方

ケーシャヴァとしてのヴィシュヌ立像
バッリグラーマのダーソージャ《ケーシャヴァとしてのヴィシュヌ立像》12世紀前半。館の記録では、石。高さ143.5センチ、幅71.1センチ、奥行き23.5センチ。番号は18.41。メトロポリタン美術館蔵。バッリグラーマのダーソージャ《ケーシャヴァとしてのヴィシュヌ立像》メトロポリタン美術館蔵

奥行きは23.5センチと記録されている。

高さ143.5センチに対して、六分の一ほどだ。

つまり、板に近い。

背面は平らで、壁に取り付ける形だと考えられる。

こうした像は、建物の一部として作られることが多い。

館の記録は、産地の推定も書いている。

南インドの、特定の地域と町の名が挙げられている。

大きな石の彫刻である。

高さは143.5センチ。

背の高い板状の石に、人物が高く浮き彫りされている。

中央の像は、まっすぐ立つ。

両脚に、体重が均等にかかっている。

腰も肩も、水平である。

腕は四本ある。

それぞれ、違うものを持つ。

頭には、高い冠をつける。

その上に、細かい装飾が続く。

像のまわりは、彫り込みで埋め尽くされている。

小さな人物や、渦を巻く形が並ぶ。

下の左右に、脇侍が立つ。

台は、二段の低い台座である。

この立ち方は、冒頭のブロンズと正反対である。

あちらは、動きを見せるために体を傾けた。

こちらは、動かないことを見せるために垂直に立つ。

左右が対称に近い。

神像には、この作りが多い。

対称であることが、その像の性格になる。

館の記録は、作者の名を書いている。

十二世紀の彫刻に、作った人の名が残っている。

九点のうち、この一点だけが、その時代の作者名を持つ。

三日月形の冠をかぶり祭具を持つ立像を浮彫にした壺
チムー《三日月形の冠をかぶり祭具を持つ立像を浮彫にした壺》1200年から1450年。館の記録では、陶器。26×22.2センチ。番号は1956.781。シカゴ美術館蔵。チムー《三日月形の冠をかぶり祭具を持つ立像を浮彫にした壺》シカゴ美術館蔵

黒い土器である。

丸い胴に、短い首と広がる口がつく。

胴の正面に、人物が浮き彫りされている。

頭に、三日月の形をした大きな冠をかぶる。

両手を左右に広げ、それぞれ何かを持つ。

脚は短く、まっすぐ下りる。

体は正面を向き、左右対称である。

胴の残りの面は、細かい粒の模様で埋まる。

表面は黒く、鈍く光る。

館の記録では、これは黒い焼き物の一種である。

土器を焼くとき、酸素を絞ると黒くなる。

この一点も、その方法で焼かれたと考えられる。

立ち方は、先の石像と同じである。

正面向きで、左右対称。

動きがない。

これも、日常の姿ではないからだろう。

儀式や信仰に関わる像は、動かない姿で作られることが多い。

九点のうち、左右対称に立つのは二点だった。

そして、その二点はいずれも人の日常を描いていない。

立っている人が、小さい場合

融大臣(詩歌写真鏡より)
葛飾北斎《融大臣(詩歌写真鏡より)》1834年から35年。館の記録では、多色刷りの木版画。全体52×23センチ。番号は1916.1142。クリーヴランド美術館蔵。葛飾北斎《融大臣(詩歌写真鏡より)》クリーヴランド美術館蔵

細長い縦の画面である。

縦52センチ、横23センチ。

上のほうに、空と山がある。

空は上が青く、下へ向かって薄くなる。

細い月が、山の上に見える。

中ほどに、水と洲がある。

そして下のほうに、人物が三人立っている。

一人は白い衣で、こちらへ体を向ける。

あとの二人は、その脇にいる。

前景には、松の枝が大きく張り出す。

館の記録によれば、この人物は九世紀の高い位の人だという。

そして館は、月と舟を詠んだ歌との関係に触れている。

これは館の説明である。

こちらで言えるのは、人物が画面の下三分の一にいる、ということだ。

題に「立つ」の語が入るのは、記録の英語の題である。

湖のほとりに立つ、と書かれている。

だが、画面での人物は小さい。

高さは、画面全体の八分の一ほどである。

立っているかどうかは、辛うじて読める。

第十九回で、遠くの人は輪郭だけになると書いた。

ここでも、姿勢だけが残っている。

立つの語が、人以外に使われる

九点の最後の二点は、人ではない。

立つライオン
ダニエル・グレートバッチ《立つライオン》1849年から52年。館の記録では、陶器。23.5×27.6×14.9センチ。番号は41.135.1。メトロポリタン美術館蔵。ダニエル・グレートバッチ《立つライオン》メトロポリタン美術館蔵

黄褐色の陶器である。

四本足の獣が、横向きに立つ。

たてがみが、頭のまわりで丸く盛り上がる。

粒を並べたような表面になっている。

尾は背中の上へ跳ね上がる。

前足の一方が、丸い球の上に乗る。

顔はこちらを向く。

台は、長方形の板である。

釉薬は、褐色と黄色が流れて混ざる。

四本足の動物にとって、立つのは難しくない。

支える点が四つあるからだ。

二本足で立つ人とは、条件が違う。

だから、この一点に姿勢の工夫はない。

見どころは、たてがみの作り方と、釉薬の流れである。

脚付き皿の下絵
アダム・ファン・フィアネン《脚付き皿の下絵》1625年から45年ごろ。館の記録では、黒チョークを部分的にぼかし、ペンと褐色のインク、筆と黒のインク。紙全体53.6×53.9センチ。番号は1964.100。クリーヴランド美術館蔵。アダム・ファン・フィアネン《脚付き皿の下絵》クリーヴランド美術館蔵

正方形に近い大きな紙である。

縦53.6センチ、横53.9センチ。

その中に、円い皿が描かれている。

円の中は、人物と馬と波で埋まる。

激しく動く場面らしい。

円の縁には、渦巻きと人物の飾りが巡る。

線は細く、灰色の淡彩が加えられる。

これは、金属の器を作るための下絵である。

題にある「立つ」は、脚が付いていることを指す。

脚があって、立つ皿である。

つまり、人の姿勢とは関係がない。

前の回でも、同じことが起きた。

足の話では、器の脚が足の語で拾われた。

体の部位や動作の名は、器の部分の名として使われる。

立つ像は、どこで支えられているか

彫刻の三点と、器の二点は、実際に立たなければならない。

紙の上の絵と違い、重さがある。

だから、支え方に工夫が要る。

ブロンズの一点は、葉の輪を台にしている。

その輪が、床との接地面になる。

つま先だけが着いた右脚は、ほとんど支えていない。

体重は左脚と、台を通して伝わる。

石の像は、二段の台座の上に立つ。

そして背面が平らで、壁に寄りかかる形になる。

倒れる方向が、前だけに限られる。

陶器の壺は、底が広い。

丸い胴の下が、平らに削られている。

陶器のライオンは、四本足と長方形の台を持つ。

四点で支えるので、いちばん安定している。

比べると、二本足の人物像がいちばん不利である。

そのため、彫刻では台や支えが要る。

絵にはこの問題がない。

紙の上では、重さが働かない。

だから、床を描かなくても人は立っていられる。

ドガの一点が、そのことを示している。

脚の下が消えているのに、倒れて見えない。

立つことと、正面性

九点の向きも数えた。

正面を向いて立つものが四点。

石の像、陶器の壺、素描の一点、そして写真の中央の一枚である。

斜めを向くものが三点。

横を向くものが二点。

正面を向く四点のうち、二点は左右対称だった。

信仰に関わる像である。

残る二点は、対称ではない。

体重が片脚に寄っている。

つまり、正面を向いていても、対称とはかぎらない。

この区別は、意外に大きい。

左右対称の像は、時間が止まって見える。

次の瞬間も、同じ姿勢でいるように見える。

対称でない像は、次の瞬間に動きそうに見える。

冒頭のブロンズは、まさにそう作られている。

つま先だけが着いた脚は、上げる途中にも、下ろす途中にも見える。

館の記録が「動いているかのように」と書くのは、そのことだろう。

一つの姿勢で、二つの時間を示している。

九点を並べて、数えられたこと

人が立っているのは六点である。

動物が一点、器が二点。

人の六点のうち、片脚に体重を乗せるものが三点。

左右対称に立つものが二点。

姿勢が読めないものが一点。

小さすぎて分からない北斎の一点である。

床や地面が描かれているのは、九点のうち四点だった。

残る五点には、立っている面が描かれていない。

台の上に置かれた彫刻は、台が地面の代わりになる。

紙の上の三点は、床がない。

それでも、立っていると読める。

材料も数えた。

紙が四点、金属が一点、石が一点、陶器が二点、写真が一点。

立つ人の高さ

九点の人物の高さも比べたい。

実物大に近いのは、石の像である。

高さ143.5センチ。

人の背丈より低いが、頭の上に冠がある。

台に載せれば、見上げる高さになる。

ブロンズは31センチ。

手に取れる大きさである。

素描の人物は、紙が41.2センチだから、それより小さい。

写真の人物は、一枚が8.2センチしかない。

指の先ほどの大きさで写っている。

同じ「立つ人」が、五センチから百四十センチまで散らばる。

そして、大きさによって見え方が変わる。

大きい像は、見上げることになる。

小さい像は、上から見下ろす。

見る角度が変われば、姿勢の印象も変わる。

見上げれば、足元が近く、顔が遠い。

見下ろせば、その逆になる。

館の記録は、置かれる高さを書かない。

台の高さも、書かれていない。

だから、どう見られていたかは分からない。

記録に書かれていないこと

館の記録は、姿勢を書かない。

例外は、冒頭のブロンズの一点だけだった。

そこでは、体重の掛け方まで説明されていた。

残る八点の記録は、題に「立つ」の語があるだけである。

どちらの脚に体重があるかは、書かれない。

そして、立っている人が誰かも、たいてい書かれない。

写真の一点には、括弧書きで名前らしいものがある。

館の記録は、その名を引用符でくくっている。

本名かどうか、確かでないという意味だと考えられる。

つまり、体を提供した人の名は、確かな形では残っていない。

第九回でも、同じことを書いた。

衣を着ない体の話では、名前が一つも残っていなかった。

ここでも、事情は変わらない。

作った人の名は、九点のうち八点で分かる。

写された人の名は、括弧と引用符の中にしかない。

そしてもう一つ、記録が扱わないことがある。

立っている人が、どれくらいの時間そうしていたかである。

石の像は、九百年立っている。

写真に写った人は、数秒だけ立った。

素描のためには、何十分も立ち続けたはずだ。

同じ「立つ」でも、要した時間がまるで違う。

作品は、その差を見せない。

記録も、それを書かない。

分かるのは、そこに立った姿が残っている、ということだけである。

次の回は、座るという姿勢を見る。

立つことと違い、座るには支えが要る。

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