足の語で拾うと、六点は人の足ではなかった——文伯仁・ピサロ・タルボットほか九点
記録の中の足の語で九点を集めた。人の足が主題なのは三点だけで、いずれも足を洗う場面だった。残る六点は、山の裾、橋のたもと、木の根元、器の脚、そして人名である。語の広がりを、そのまま並べたい。人の足が写る三点は、いずれも水辺にあった。

川の真ん中で、足を水に入れている
大きな掛軸である。
画面の縦は170.2センチある。
高いところから見下ろした川の景色が広がる。
手前に岩と松があり、奥に低い山が霞む。
水面は白く残され、岸は細かい線で埋まる。
その中ほどに、小さな舟が一艘浮かぶ。
舟の上に、人が一人座っている。
体を前に傾け、片方の脚を舟べりから出している。
足首から先が、水に入っている。
顔は、豆粒ほどの大きさしかない。
それでも、何をしているかは分かる。

館の記録は、支持体について珍しい書き方をしている。
掛軸を板に貼ったもの、とある。
もとは巻いて仕舞う形だった。
それが、平らな板に貼り付けられている。
掛軸は、巻くたびに紙が折れる。
長く繰り返せば、折り目に沿って傷む。
板に貼れば、その傷みは止まる。
代わりに、巻けなくなる。
保存のための処置が、もとの形を変えている。
館の記録は、いつ誰が貼ったかまでは書いていない。
前の回で、手を九点並べた。
手の話では、手は何かをしている場面ばかりだった。
今回は足である。
記録に足の語があるものを、九点集めた。
そして、集めてみて分かったことがある。
人の足が主題なのは、九点のうち三点だけだった。
残る六点の「足」は、まったく別のものを指していた。
順に並べたい。
足を洗うという主題
まず、人の足の三点から見る。
この一点について、館の記録は詩の一節を引いている。
川の水が澄んでいれば冠の紐を洗い、濁っていれば足を洗う。
そういう内容の古い句である。
館は、この主題がその句を絵にしたものだと説明している。
つまり、足を洗うのは、汚れを落とす行為ではない。
世の中との距離の取り方を示す型である。
これは館の見解である。
こちらで確かめられるのは、足が水に入っている、という事実までだ。
画面の中で、その人物は小さい。
画面の高さの、五十分の一ほどしかない。
第十九回で、遠くの人は点にしかならないと書いた。
遠くの人の話と同じで、輪郭の要点だけが残る。
それでも、足を出した姿勢は読み取れる。
姿勢は、顔より遠くまで届く情報である。

ただし、六十年という差は正確ではない。
こちらは1629年の年記があると記録は書く。
先の一点は1570年である。
五十九年の差になる。
年記があるかないかで、記録の確かさが変わる。
年記のある作品は、年の欄に幅がない。
同じ主題が、六十年後の別の作品にもある。
こちらは扇の面である。
上が弧を描き、下も弧を描く。
扇形の紙に、山水が描かれている。
右上に、赤い印と文字がある。
左下にも、印が一つ押される。
木立と、岩と、細い流れが描かれる。
人物は、やはり小さい。
第十九回で、扇の形を扱った。
扇の話で見たとおり、扇は開けば面になる。
その面に絵を描き、あとで骨から外して画帖に貼る。
だから、寸法は横に長い。
縦16.5センチ、横49.8センチである。
九点のなかで、いちばん横長の形をしている。

三点目は、まったく違う場所の絵である。
館の記録は、額を含む寸法も書いている。
95×113.1×12.4センチである。
厚みが12.4センチある。
九点のなかで、いちばん厚い額だ。
絵そのものより、縦横それぞれ二十センチ以上大きい。
緑の土手が、画面の左から右へ下る。
その下を、細い流れが横切る。
女性が、岸にしゃがんでいる。
橙色の上着と、模様のある巻いた布を着ける。
体を前に折り、両手で足首のあたりを持つ。
そして、片足を水に入れている。
水面に、脚の形が映る。
まわりは、草と木で埋まっている。
絵具は、細かい点と短い線を重ねて置かれている。
色を混ぜず、隣り合わせに並べる描き方である。
先の二点と比べたい。
中国の二点では、人物は小さく、景色が主役だった。
こちらでは、人物が画面の中央にいる。
大きさも、画面の三分の一を占める。
同じ「足を洗う」でも、扱いが逆である。
そして、意味も違うと考えられる。
こちらの一点に、詩の型はない。
館の記録も、そうした説明をしていない。
書かれているのは、寸法と技法と、受け入れの経緯だけである。
ここから六点は、人の足ではない
九点のうち、残る六点を並べる。
いずれも、記録に足の語がある。
だが、人の足は写っていない。