星は、画面に一つしかない——ディ・パオロ・デューラー・ドガほか九点
三博士を導く星も、写本の隅の金の粒も、画面にはたった一つきり。星の絵を九点集めると、ちりばめた夜空は一枚もなく、星は冠になり、胸の記章になり、人の呼び名になり、題箋の字になっていた。数えられるほど少ない星が、一つずつ役目を負っている。

岩屋の上に、金の尾を引く玉がひとつ
緑の丘のすそに、灰色の岩屋が口を開けている。
その岩屋のすぐ上に、白い玉がひとつ浮かんでいる。
玉のまわりは金色ににじみ、細い金の尾がまっすぐ下へ垂れている。
星である。
丘も空も、まだ昼の明るさをしている。
星が出ているのに、夜ではない。
画面の左では、青い衣の聖母が幼子を膝に抱いて座っている。
金襴の衣の老人がひざまずき、幼子に顔を寄せる。
右半分には、馬と従者がひしめき、白い犬が寝そべっている。
岩屋の奥では、牛とろばが飼い葉の桶に首を並べている。
木々の茂みは黒く、金色の点をびっしりまとっている。
遠くの丘の道には、豆粒ほどの旅人とろばが歩いている。
いちばん高い丘の上には、青い城のような建物が見える。
空には、小さな鳥の列が飛んでいる。

15世紀イタリア、シエナの画家ディ・パオロの板絵である。
館の記録では、マタイによる福音書の場面だという。
三人の博士が星に導かれ、生まれたばかりのキリストを見つけて、贈り物を捧げた。
15世紀の画家たちは、この短い記事に大きく尾ひれを付けた、と記録は続ける。
とくに博士たちの供の行列に力を入れたという。
行列は、当時の貴族の暮らしの華やぎを描き込む格好の口実だった。
にぎやかな行列と動物たちが、目を楽しませる脇筋になっている、と記録は読む。
ひしめく馬と従者は、聖書ではなく、画家の時代の見せ場である。
ディ・パオロは15世紀シエナを代表する画家で、写本の挿絵でも板絵でも知られた。
シエナの町の教会に、板絵を納めていたという。
板の大きさは、額なしで38.4×44.3センチ。
祭壇画の下段に並ぶ一こまほどの、手に持てる大きさである。
その小さな画面に、王と従者と馬と牛とろばと犬が詰め込まれている。
数えられるものは多いのに、星だけが一つきりである。
さて、この場面の立役者は、博士たちを導いた星である。
その星は、画面にいくつあるか。
ひとつである。
空一面の星ではなく、たったひとつの星が、三人の王を旅に出した。
ここから、星の絵を九点数えていく。
先に言ってしまうと、九点のどこにも、星をちりばめた夜空はない。
星は思いのほか少なく描かれ、そのかわり、意外な場所に散らばっていた。
指の先の星は、米粒より小さい
同じ場面を、百六十年ほどのちに、まったく別の土地で描いた一葉がある。

ページの上部には、ペルシア文字の文章が四行、枠に囲まれて載っている。
その下で、三人の博士がらくだに乗り、岩山のあいだを進んでいる。
黒い山高帽のひとりが腕を高く上げ、左上を指さしている。
指の先、ページの左の縁に、金色の小さな星がある。
米粒ほどの大きさで、うっかりすると見落とす。
館の記録では、ムガル朝の皇子サリームのために作られた写本の一葉である。
もとは、ジェローム・ザビエル神父の『聖性の鏡』という書物だという。
その挿絵を、ムガルの宮廷絵師パヤーグが描いた。
絵師たちは皇帝アクバルに仕えたのち、皇子の反乱の宮廷に移ったとある。
記録によれば、ひとりは驚きのあまり指をかみ、ひとりは胸にこぶしを当てる。
三人の装いは、ポルトガルの商人がもとになっているという。
当時のムガルの人びとが見た西洋人は、主にゴアから来る商人だった。
聖職者でない西洋人を描くときの、ひな形になっていたとある。
ただし乗り物は、本文の記すとおり、故郷アラビアゆかりのらくだである。
丘の草色の斜面には、緑の文字がうっすら透けて見える。
紙がもろく絵の具も薄いので、裏の文章が表に透けるのだ、と記録は言う。
反乱の宮廷アラーハーバードでは、都ほど上等な材料がそろわなかったという。
それでも星は、金で置かれている。
ひとつの星が、ここでも画面の隅から、三人と三頭を引っ張っている。
導きの星の力は、大きさではないらしい。
十二の星は、冠になる
三点目の星は、空を離れて、人の頭の上にある。

冠をかぶった聖母が幼子を抱き、三日月の上に立っている。
足元の三日月には、横向きの顔が彫り込まれている。
体のまわりから、彫りの線が放射状に噴き出している。
紙の右下には、1508の年記と、組み合わせ文字の署名が見える。
冠のふちには、とげとげの小さな星が並んでいる。
数えようとすると、冠の後ろ側へ回り込んで、数えきれなくなる。
館の記録では、デューラーは三日月の上に立つ聖母子を四点彫った。
黙示録の12章に現れる、身ごもった女と聖母を重ねる図像だという。
記録は句を引いている。
太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶった女が、天に現れた。
満月の摺り方を数えた回もあった。
同じひとつの句から、太陽の絵と月の絵と星の絵が生まれている。
太陽は衣になり、月は足場になり、星は冠になった。
十二の星は、ここでは光る点ではなく、身に着ける宝である。
豪華な二重の光輪が全身を包む、と記録はこの一点を評している。
同じ主題でも、簡素で慎ましい聖母を彫った版が別にあるという。
天の女王と、幼子の慎ましい母。
二つの顔を、デューラーは冠と光の量で描き分けた。
星の数が定まらないのは、彫りのせいばかりではない。
十二という数は、句のほうが決めている。
画面は、その数を確かめさせない作りになっている。
星の冠は、聖母の専有物でもない。