裸は、水に入らない——ドガ・ブラックモン・春汀ほか九点の湯浴み

砂浜の手前に、黄色い上着と桃色の裾の人が座っている。
そのそばに、赤い帽子が見える。
沖では大勢が、砕ける波にもまれている。
黒っぽい服のまま、水しぶきの中にいる。
波間に見える頭は、数えれば二十を超えそうである。
絵の具は厚く、波頭の白が盛り上がっている。
板の上に、その場の速い筆で置かれた小さな一枚である。
館の記録では、ポットハストはシンシナティに生まれ、ミュンヘンとパリで学んだ。
帰国後は夏ごとにニューイングランドの海岸へ通い、海辺で遊ぶ人々を見つめたとある。
生涯結婚せず、若い母と子どもを描くことをとりわけ好んだ、とも記録は書く。
付記には、水着のことが書かれている。
1900年代はじめの女性の水着は、慎みを保つため、長くゆったりした裾だったという。
波の中の人影が黒っぽく見えるのは、この服のせいである。
春汀の海でも、ポットハストの海でも、水に入る人はみな着衣である。
裸の五点のうち水に触れたのは一人だけで、それも膝から下だけだった。
いっぽう水に入る二点は、裸ではない。
裸であるほど水から遠く、服を着ているほど水に深く入る。
九点は、きれいに裏返しになっている。
誰もいない、沐浴の池
最後の一点に、人はいない。
静かな水面に、塔と寺院が逆さに映っている。
岸には石の縁が長く続き、茂みが覆いかぶさる。

1857年ごろの写真である。
撮ったのは、19世紀イングランドの軍人、ビッグズ大佐。
用いられた湿板コロディオンは、名前のとおり、濡らしたガラス板で撮る技法である。
原板には判読しがたい署名があり、鉛筆でビッグズ大佐と書き込みもあると記録は伝える。
湿板は、撮る側にとって重い技法である。
その場でガラスに薬を塗り、濡れているうちに撮って、すぐ現像する。
暗室ごと運ばなければ、遠い土地では一枚も撮れない。
人のいない池を写した一枚の裏に、その手間がある。
台紙まで含めると、50.8×61センチの大きさで保管されている。
写真そのものは、1992年に寄贈で館へ入った。
題は、バンシュンクリーの沐浴池と寺院。
バンシュンクリーという土地の名は、題だけが伝えている。
沐浴の池、とある以上、この水は体を浸すための水である。
体を清める行いが、この水辺の本来の用途だと題は言う。
けれど写真の中で、水に入っている人は一人もいない。
人の代わりに、建物が水を使っている。
逆さの塔として。
体のない水だけの一点が、九点の端を締めくくる。
数えて、分かったこと
九点を数え直す。
裸の体が主役の絵が五点。
ドガ、ルノワール、ブラックモン、セザンヌ、エンネルである。
その五点で水に入っていたのは、髪を絞る一人だけだった。
着物や水着の人が水辺にいる絵が三点。
国貞、春汀、ポットハストである。
人のいない水の絵が一点。
肩まで水につかった人が見えるのは、九点のうち二点だけである。
膝まででよければ、ブラックモンの一点が加わって三点になる。
春汀の子どもたちと、ポットハストの海水浴客。
どちらも、着衣の絵である。
そして、浴槽の湯が見える絵は一点もない。
湯浴みと水浴の絵を九点集めて、湯船はゼロだった。
たらいで湯を浴びる行水も、湯船ごと描かれてはいない。
湯の絵はいつも、湯の前か後を描いている。
白い布も数えられる。
裸の五点のうち、三点に白いものが描かれている。
拭くための布、脱いだ肌着、そして白いチョークで起こした肌である。
布は、湯や水と体のあいだを取り持つ小道具である。
素材も数えておく。
油彩が四点、版画が三点、素描が一点、写真が一点。
版画の内訳は、リトグラフが一点と木版が二点である。
紙に描かれ、紙に摺られたものが五点。
布と板が四点。
裸の絵ほど大きな布に描かれ、暮らしの絵ほど紙に摺られている。
体は本画の主題で、湯屋と海辺は刷り物の主題だった。
ここから言えることを、分けて書く。
裸の五点が水に入らないのは、たまたまではないだろう。
水浴図の主役は水ではなく、体である。
水辺という設定が、野外の裸を描く理由を用意する。
エンネルの括弧が、神話の名で理由をひとつ足したのと同じ仕組みである。
一方、着衣の三点では、水そのものが暮らしの場所になっている。
湯屋ののれん、明治の波打ち際、砕ける波。
体の絵では水が言い訳になり、暮らしの絵では水が主役になる。
言えないことも書いておく。
この九点は、題や記録に湯や水浴の語を持つ作品から集めた。
五対三対一の割合は、この九点の中の話にすぎない。
水浴の絵の全体で裸が水に入らないと、ここから決めることはできない。
現に、九点のうちの一点が、膝まで水に入っていた。
数え方を変えれば、この比率はすぐに動くだろう。
候補には、水辺に置かれた神話の名の絵がほかにもあった。
そのどれを取るかで、五対三対一の並びは変わったはずである。
もう一つ、記録に残らないことを書いておく。
九点のうち、湯や水の温度に触れた記録は一つもない。
熱い湯なのか、冷たい川なのか、どの欄も書かない。
書いてあるのは、絵の具と紙と寸法と、買った人の名前である。
体に触れた水の感じだけが、記録から抜け落ちている。
最後に、ドガの背中へ戻る。
白い布が押さえているのは、絵に描かれなかった湯の、最後の名残である。
体が濡れているあいだだけ、湯浴みはまだ続いている。
湯そのものは描かれず、湯上がりだけが残された。
九点を通して、絵が選んだのはいつもその側だった。
次に水浴の絵に出会ったら、その人が水に入っているかを見てほしい。
入っていなければ、画家が見ていたのは水ではなく、体のほうである。









