止まった画面に、時計が立っている——ブール・スリンゲラント・歌麿ほか九点

砂時計の水彩である。
台の上に、木の枠の砂時計がひとつ置かれている。
赤みがかった砂は、下の球に落ちきっているように見える。
上の球は、ほとんど空である。
まわりには何も描かれず、砂時計だけが紙の上にいる。
アメリカの画家ウォルコットが、1872年から74年ごろに描いたとある。
紙は15.2×9.3センチと、絵はがきほどの大きさしかない。
この記録は、作者と年と技法と寸法だけの短いものである。
題も《無題(砂時計)》と、括弧つきでしかない。
九点のなかで、いちばん言葉の少ない記録である。
砂時計は、時刻を教えない。
ひっくり返してからの、ひとつづきの時間だけを計る。
文字盤も針もないから、止まっていても分からない——とは言えない。
砂の落ちきった砂時計ほど、はっきり止まって見えるものはない。
誰かがもう一度返すまで、この時計の時間は動かない。
そして絵のなかには、返しに来る手が描かれていない。
時間切れの図と呼びたくなるが、そこで踏みとどまる。
これが何かの寓意かどうか、記録はひとことも言っていない。
確かめられるのは、落ちきった砂と、空の球だけである。
題名のなかの時計
最後の一点では、時計が画面から消える。

若い女がふたり。
ひとりは襟元に手をやり、ひとりは黒い手鏡をかかげている。
身支度の場面である。
画面のどこを探しても、時計はない。
だが、題に時計がいる。
一枚の題は《巳の刻》、揃物の名は《娘日時計》。
一日を十二の刻に分け、動物の名で呼ぶ、昔の数え方である。
巳の刻は、昼前にあたる。
日時計は、影の向きで時を知る道具の名である。
娘たちの一日が影のように回っていく、という見立てなのだろう。
娘たちの一日を刻で区切って並べる趣向だと、題から読める。
時計の文字盤の役を、絵の揃いが務めているのである。
豆知識の欄には、女たちの顔の輪郭が紙の凹凸で浮き出ている、とある。
色ではなく、型押しの立体で輪郭を示す摺りである。
銘の欄には、署名は「歌麿筆」、版元は村田屋治郎兵衛とある。
来歴の欄では、ニューヨークの収集家の手を離れ、1921年の競売と画商を経て館に入った。
かかげた手鏡のほうは、鏡が入ると顔が二つになる回で数えた道具である。
鏡は姿を映し、刻は時を区切る。
身支度の絵に、時計の題が付く理由は、そこにあるのだろう。
何時であるかは、装いの手順が知っている。
一日のうちの一刻だけが、一枚の絵に切り取られている。
残りの刻は、揃いのほかの絵が受け持っていたはずである。
一枚だけを見るわたしたちは、文字盤の一目盛りを見ていることになる。
数えると、こうなった
九点の時計を、ここで数える。
実物の時計が、四点。
置時計が二つ、身に着ける時計が二つである。
絵に描かれた時計が、四点。
題名のなかにだけいる時計が、一点。
描かれた四点の居場所も数えられる。
手の中が二点、塔の上が一点、台の上が一点。
そして描かれた時計は、砂時計を除けば、どれも小さく描かれている。
画面の主役の座は、人や町に譲られていた。
時計が真ん中で主役を張るのは、むしろ実物の側である。
機械のことも数えておく。
九点のうち、歯車を持たない時計が二点ある。
砂で計る砂時計と、題に日時計の語を借りた歌麿の揃物である。
年代はどうか。
実物の四点は、1580年ごろから1880年ごろまで、ちょうど三百年に散らばる。
作られた土地も数えると、実物四点のうち三点までがフランスである。
残る一点が、アメリカ。
九点に、日本の実物の時計は入らなかった。
絵の側には歌麿がいるのに、物の側は西洋ばかりである。
これは館の集め方の反映であって、時計の歴史そのものではないだろう。
時計という語で記録を引くと、こういう棚の癖まで一緒に見えてくる。
描かれた側も、1657年から1872年ごろまでに散らばる。
どの世紀にも、時計は作られ、同時に描かれてもいた。
実物と絵が、ずっと並走している。
人の数も、数えておく。
時計のそばに人がいる絵は、四点ある。
時計をつまむ男、時計を扱う男、塔の下の群衆、鏡の前の女たち。
人がいないのは、砂時計の一点だけだった。
時計は、巻く、提げる、見上げるという人の動作を前提にした道具である。
だから絵のなかでも、時計はめったに人の傍らを離れない。
砂の落ちきった砂時計だけが、誰にも構われずに置かれていた。
出所の欄にも、時間の話が隠れている。
ブールの置時計は、ある夫妻の結婚五十年を祝い、家族と友人が館に贈った。
五十年という時間の記念に、時を計る道具が選ばれている。
出所の欄までが、時計の絵柄の続きのようである。
言えないことも、書いておく。
手の中の時計が描かれた時計の多数派かどうかは、九点からは決められない。
二枚の肖像の時計が何を意味していたのかも、記録は決めていなかった。
象徴の読みは、決めないままでも数えることの邪魔にはならない。
そしてもう一つ、どの記録にも書かれていないことがある。
描かれた時計の針が、何時を指しているかである。
寸法や材料をあれほど細かく書く記録が、時刻だけは書かない。
絵のなかの時刻は、記録の欄の外にある。
知りたければ、画面を拡大して、自分の目で針を探すほかない。
その針がその時刻を指した日から、三百年以上たっていたりする。
最後に、ブールの時計の銘に戻る。
「時は絶えず進む」。
胴に彫られてから三百年、この言葉は正しかったことになる。
時は絶えず進み、作り手と持ち主を追い越して、時計だけが残った。
止まった時計と、進み続ける時。
絵のなかの時計は、はじめからその競争を降りている。
進むことをやめた時計だけが持つ、静かな顔がある。
九点のどれにも、その顔があった。
だからわたしたちは、安心していつまでも眺めていられる。









