赤は、面積の小ささで効く——コワペル・フラゴナール・ムンクほか九点
外套の裏は画面の十分の一もなく、緑の山の仙人は指の先ほど、森の柵は百分の一もない。それでも赤は真っ先に目に入る。九点のうち六点で、赤は最小の面積で最大の注意を集めていた。少ないほど強いという、面積の逆説の記録である。

赤い石で、頬が引かれている
淡い褐色の紙に、若い男の頭部が描かれている。
顔は上を向き、右へ傾いている。
口はわずかに開き、下唇が見える。
目は細められ、視線が上へ抜ける。
髪は乱れ、額から後ろへ流れる。
頬と鼻筋と唇に、赤みが差している。
その赤は、絵の具ではない。
石を削った棒で引かれた線である。
線は一本ずつ数えられるところと、こすってぼかされたところがある。
こすった部分では、赤が面になっている。
顎の下と首には、黒い線が重なる。
襟のあたりには、白いチョークが置かれている。
紙の色そのものが、肌の中間の明るさを受け持っている。
背景は描かれていない。

館の記録では、作者はその世代でもっとも重要なフランスの画家だった。
そして、色彩に優れると同時に、素描の伝統にも深く通じていた。
赤と黒と白のチョークを一枚の上で併せ用い、階調を得ているという。
館の記録は、そう説明している。
さらに、この素描がある大きな装飾画の連作と結び付くことも書いている。
その連作は、いまは失われたものが多い。
残った一点も、傷んだ状態だという。
つまり大きな絵は消え、赤いチョークの頭部だけが残っている。
そして館は、この頭部が何の場面のためかも書いている。
ある叙事詩の中の、葬礼に集まる人のひとりだという。
つまりこの上を向いた顔は、嘆いている顔である。
しかし素描だけを見れば、嘆きとは分からない。
分かるのは、口が開き、目が細められていることだけである。
台紙には、別の画家の名が鉛筆で書き込まれている。
かつては、その人の作と考えられていたのだろう。
来歴の欄には、十八世紀の名高い収集家の印も記されている。
紙の隅の印と、台紙の書き込みが、帰属の歴史を残している。
前の回で染付が真似の技法であることを見た。
素描でも、誰の手かをめぐって同じことが起きている。
赤は、何でできているか
この一枚を出発点に、赤の使われた九点を数えていく。
赤という色は、材料の幅が広い。
土を焼いた顔料、鉱物を砕いた朱、虫からとる臙脂、そして植物の染料。
そして描画材としての赤い石もある。
先に言ってしまうと、九点のうち、赤が広い面として塗られているのは三点である。
三点では、赤は小さな一部にしか使われていない。
そして三点では、赤は画面にほとんどなく、題と名前の中にある。
数えていくと、同じ赤という語が、材料と面積と名前のあいだを移っていくのが見える。
外套の裏だけが、赤い
二点目は、小さな油彩である。

たいへん小さな板絵である。
額なしで20.8×16センチしかない。
背景は暗い褐色で、何も描かれていない。
中央に、少年の頭部と肩がある。
顔は正面をやや外れ、こちらを見ている。
頬は丸く、明るい。
髪は褐色で、細かく巻いている。
首もとには、白い襟が覗く。
肩には、褐色の厚い外套が掛かる。
その外套の内側が、赤い。
赤は襟の折り返しと、右肩の裏に見える。
面積は小さく、画面の十分の一もない。
しかし画面でいちばん強い色である。
館の記録では、この画家は長い生涯に五百五十点を超える絵を描いた。
そして、この一点の十七世紀風の衣装と、褐色を基調とする色調と、技法は、師よりも先行する二人の巨匠を思わせるという。
館の記録は、そう読んでいる。
さらに、描かれた人物についても書いている。
作者の息子だとする証拠はかなりあるが、その同定は確認されていない。
つまり誰を描いたかは、決まっていない。
この画家の速い手つきについては、速い手で扱った。
板に描かれていることも見ておきたい。
小さな絵では、布より板のほうが扱いやすい。
布は張りが緩むと絵の具が割れる。
板なら、二十センチ角の画面でも平らを保てる。
そして板の上では、絵の具が沈み込まない。
赤い裏地の鮮やかさは、地の硬さにも支えられている。
館の記録は、そこまでは書いていない。
書かれているのは、板に油彩であることと、寸法だけである。
光そのものが、赤い
三点目は、板絵である。

大きな縦長の板絵である。
額なしで114×94.5センチある。
中央に、十字架が立つ。
その上に、人が架けられている。
十字架の後ろに、髭の老人が座る。
三重の冠をかぶり、両腕を左右へ広げる。
老人が着ているのは、深い赤の外衣である。
面は厚く、金の糸で大きな実の文様が織り出されている。
首の下で、留め具が掛けられている。
十字架の上には、白い鳥がいる。
そして画面の左右の上部に、赤い光が放射している。
その光の中に、小さな顔がいくつも浮かぶ。
翼のある頭部である。
赤い光は、放射状の線の束として描かれている。
館の記録では、この三者は父と子と聖霊である。
そして館は、赤い光について書いている。
厳粛な描写と対をなして、輝く赤い光に浸された天使たちが置かれている。
それは、この作者が同じ町で意匠した色ガラスの窓の影響かもしれないという。
館の記録は、そう推測している。
そして外衣についても細かい。
聖職者が行列のときに着る、豪奢で宝石を付けた式服である。
深紅のビロードに、金の糸で大きな石榴の文様を織り出している。
館の記録は、そう説明している。
つまりここでの赤は、二種類ある。
織物の赤と、光の赤である。
九点のうち、赤が光として描かれているのは、この一点だけである。
そして光の赤と、織物の赤は、描き方が違う。
織物の赤は、影を含んで深い。
襞のところで暗くなり、山のところで明るくなる。
光の赤は、影を持たない。
線の束として、放射状に伸びるだけである。
同じ赤い顔料でも、置き方でまったく別のものになる。
館の記録が色ガラスの窓を引き合いに出すのは、その平らさのためだろう。
ガラスの窓では、色は光そのものとして目に届く。