速さという趣味——フラゴナールの装飾画
フラゴナールの筆あとは、そのまま残されている。同じ構図が二点あり、大画面も対で作られた。装飾画は組で考えるという前提から、速さと反復が何を生んだのかを九点で読む。革命で注文が消えるまでの経緯も追いかけたい。

一気に描かれている
一枚の絵から始めたい。

若い女性が横向きに座り、本を読んでいる。
黄色い絹の服。袖が大きく膨らみ、光が上面で白く跳ねている。
首元には襞の立った白い襟。手首にも同じ襞飾りがある。
髪は後ろで結い、桃色のリボンが二か所に留められている。
右手に小さな本を持ち、指を頁に添えている。
背後には紫がかった大きな座布団。下には褐色の台。
背景は暗い茶で、右に柱のような明るい帯がある。
顔は完全な横顔である。鼻筋から顎までが一本の線で描かれている。
服が、主役である
もう少し画面を見ておきたい。
黄色の面積が広い。画面の三分の一近くを占めている。
この黄色は、当時の絹の色として選ばれたものだろう。
光の当たる面は白に近く、影は橙から褐色へ落ちる。
一枚の布の中に、四段ほどの明度がある。
一方、顔と手の面積は小さい。全体の一割に満たない。
つまり見せ場は衣装であり、顔は形を整える程度に描かれている。
肖像画では逆になる。顔に時間をかけ、衣は速く済ませる。
この絵は肖像ではないため、配分が反転している。
何に時間をかけるかは、絵の目的から決まる。
筆の速さが、そのまま残っている
この絵の見どころは、絵具の置き方である。
黄色い服の襞は、太い筆で一気に引かれている。
明るい部分は絵具が厚く、盛り上がって光を受ける。
暗い部分は薄く、下の層が透けている。
襟の襞飾りは、白い絵具を短く連続して置いただけである。
一枚ずつの襞を追っていない。
座布団の紫も、二、三色を混ぜながら大きな筆で塗っている。
つまり、細部を積み上げる描き方をしていない。
形が決まったところで筆を止めている。
この描き方には条件がある。
止める位置を、あらかじめ知っていなければならない。
どこまで描けば布に見えるか、どこで止めれば形が保つか。
その判断が付いていないと、途中で止めた絵は未完成に見えてしまう。
速い絵は、経験の量に支えられている。
同じことは17世紀のオランダの画家にも言える。
筆あとを残す描き方は別のコラムで扱った。
速さの技術は、時代と国を越えて繰り返し現れている。
速さは、この画家の売りだった
18世紀のフランスで、この画家は速筆で知られた。
短時間で一点を仕上げたという逸話がいくつも伝わる。
数時間で人物像を描いたという記録も語られてきた。
ただし、そうした逸話の出所は後世の伝記が多い。
本稿では「速さが評判になっていた」という点までを事実として扱いたい。
確かなのは、絵の表面に速さの痕跡が残っていることである。
この一点の主題も押さえておきたい。
読書する若い女性という主題は、当時よく描かれた。
特定の人物の肖像ではなく、型としての人物像である。
こうした絵を、当時の言葉で「空想の人物像」と呼ぶことがある。
顔は横向きで、目は本に落ちている。見る側と視線が交わらない。
つまり誰かの肖像ではなく、姿と衣装を眺めるための絵である。
服の黄色が主役で、人物はその衣を着せる支えに近い。
装飾画としての性格が、ここにも出ている。
問い——速さと反復は、何を生んだのか
ここから本稿の問いに入りたい。
速く描ける画家は、同じ絵を何度も描くことができる。
当サイトが公開するこの画家の作品は19点ある。
その中に、同じ題名の作品が二組ある。
同じ主題を二度描いた実例が、並んで公開されているということである。
反復は手抜きなのか、それとも別の仕事なのか。
以下、二組の対を並べて確かめていきたい。
先に結論を書いておく。
この画家の反復は、複製ではなく別注である。
同じ意匠を別の部屋のために作り直し、色を変えている。
装飾画の仕事では、それが標準的な作り方だった。
描いたのは、南フランス出身の画家
ジャン=オノレ・フラゴナールは1732年、南フランスのグラースに生まれた。
パリで修業し、ローマに留学している。
帰国後は、公的な大画面ではなく、個人の邸宅の装飾を多く手がけた。
扉の上に嵌める絵、壁の羽目板に収める絵、天井の小さな絵。
つまり建築の装飾を請け負う画家だった。
装飾の仕事では、同じ部屋に複数点を揃える必要がある。
反復が前提の商売だったことになる。
顧客の性格も押さえておきたい。
18世紀後半のパリでは、貴族と富裕な市民が邸宅を改装した。
小部屋を作り、壁に羽目板を張り、そこに絵を嵌める。
大きな歴史画よりも、軽い主題の装飾が求められた。
恋、遊び、庭、子ども。物語の重さを避けた主題である。
その好みが、この画家の仕事の内容を決めている。
同じ構図が、二点ある
まず一組目である。

楕円の画面である。縦55.9センチ、横46.4センチ。
雲の上に、翼のある幼児が立っている。
右手に杖のような物を掲げ、左手を上げている。
足元には白い鳩と、桃色の花の茂み。
上方に鳩が三羽、羽を広げて飛ぶ。
空は淡い青と灰。全体に色が薄く、白っぽい。

同じ主題の、もう一点である。
寸法はほぼ同じ。縦56.2センチ、横47.3センチ。
構図も同じである。雲の上の幼児、掲げた杖、飛ぶ鳩、足元の花。
しかし違いがある。
空が桃色を帯びている。雲の縁が暖かい色に染まっている。
鳩の数が多い。位置も上へ寄っている。
幼児の肌は赤みが強く、頬と膝に朱が入っている。
花の色も濃い。桃色と黄が鮮やかである。
つまり構図は同じで、色が違う。
絵具の状態にも差がある。
前の一点は表面に細かい亀裂が見える。
後の一点は比較的滑らかである。
修復の履歴や保存の環境が違うのだろう。
同じ画家の同じ構図でも、いまの見え方は保存の条件に左右される。
色の違いを様式の違いと読む前に、この点を確かめる必要がある。