美術史・技法

旅を売るという商売——歌川広重《東海道五十三次》

東海道五十三次は、旅をしない人のために作られた。広重は同じ宿場を二度描き、寸法を変え、文字を添えて別の客に売った。日本橋から京へ、街道の絵がどう商品になったかを十点でたどる。五十三という数の意味にも触れておきたい。

東海道五十三次之内 日本橋
歌川広重《東海道五十三次之内 日本橋》メトロポリタン美術館蔵

旅の始まりは、橋である

一枚の版画から始めたい。

東海道五十三次之内 日本橋
歌川広重《東海道五十三次之内 日本橋》1833〜1834年ごろ。木版摺、紙に墨と色。縦24.1センチ、横35.2センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川広重《東海道五十三次之内 日本橋》メトロポリタン美術館蔵

橋が画面の中央を横切っている。

木造の太鼓橋で、緩やかに反っている。欄干の柱が等間隔に並ぶ。

橋の上を、行列が渡っている。

先頭に槍を立てた者が二人。後ろに笠をかぶった供が続く。

大名の行列である。朝の出発だと分かる。

手前には別の人々がいる。

天秤棒を担いだ男が二人、桶を下げて右へ歩く。魚を運ぶ姿である。

その足元に、蓋の開いた桶と籠が置かれている。

左端には黒い板壁が立ち、屋根が画面の外へ切れている。

右上に題名の枠がある。「東海道五十三次之内 日本橋」と読める。

空は上部だけが朱に染まっている。夜明けである。

色の使い方も見ておきたい。

橋の板と欄干は淡い黄土色。空の朱、川の灰青、着物の紺と赤。

色数はおおよそ七つか八つである。

大名行列の衣が青と赤で、魚売りの着物も同系の色で塗られている。

身分の違いを、色では区別していない。

区別されているのは姿勢と持ち物である。槍を立てる者と、桶を担ぐ者。

人の格を、道具で示す描き方になっている。

この橋が、道の起点だった

日本橋は、江戸の中心にあった橋である。

五街道の起点と定められ、道中の距離はここから測られた。

つまりこの一枚は、旅の第一歩を描いている。

行列と魚売りが同居しているのも意味がある。

大名の通行と、市場の商いが同じ橋を使っていた。

道は移動のためだけでなく、物を運ぶためにもあった。

朝を選んだ理由も考えられる。

大名の行列は、明け方に江戸を出るのが慣例だった。

魚市場も朝が最も忙しい。

つまり「朝の日本橋」は、一日でもっとも人と物が動く時刻である。

旅の絵の第一枚に選ぶ場面として、これほど適した時刻はない。

版画の題に「朝之景」と入るのは、時刻が主題だからである。

行列の意味

行列をもう少し見ておきたい。

大名は定期的に江戸と領地を往復する義務を負っていた。

参勤交代と呼ばれる制度で、街道の交通量の多くを占めていた。

行列の人数は家の格で決まり、数百人に及ぶこともあった。

宿場はその宿泊と荷役を引き受ける。断ることはできない。

つまり街道は、制度によって維持されていた道である。

旅人が自由に歩く道ではなく、統治の装置でもあった。

版画に大名行列が描かれるのは、それが日常の風景だったからである。

東海道という道

東海道は、江戸から京都までを結ぶ街道である。

道のりはおよそ五百キロ。宿場が五十三か所設けられていた。

徒歩での所要は、二週間前後と言われる。

宿場には旅籠、茶屋、人足、馬が置かれ、荷の積み替えが行われた。

要所には関所があり、通行には手形が必要だった。

誰でも自由に旅ができたわけではない。

それでも18世紀以降、庶民の旅は増えていく。

寺社への参詣を名目にすれば、旅の許可が得やすかったからである。

費用の工夫もあった。

村や町で金を積み立て、順番に代表者を送り出す仕組みがある。

伊勢参りなどでよく使われた方法である。

つまり旅は、個人の出費であると同時に、集団の行事でもあった。

旅から帰った人は、土産と話を持ち帰る。

その話を補うものとして、道中の絵が売れる。

版画の需要は、こういう社会の仕組みと結びついていた。

なお、旅の実態については当時の日記や案内書が数多く残っている。

本稿ではその内容には踏み込まず、絵から読めることに絞りたい。

東海道五十三次之内 石薬師
歌川広重《東海道五十三次之内 石薬師》1842年ごろ。木版摺、紙に墨と色。縦22.4センチ、横34.4センチ。メトロポリタン美術館蔵。行書体の題字を用いた組の一枚。歌川広重《東海道五十三次之内 石薬師》メトロポリタン美術館蔵

もう一枚、別の組を見ておきたい。

雪の道である。空は濃い藍で、白い点が一面に降っている。

太い松の幹が左から斜めに伸び、枝に雪が載る。

道を三人と馬一頭が進んでいる。

先頭は蓑をまとった人物。次に荷を積んだ馬。最後に笠の人が続く。

馬の背には白い覆いが掛けられ、その上に荷が結ばれている。

右上に題名の枠。左下に署名が入る。

これも東海道の五十三次だが、また別の組である。

同じ画家が同じ道を、何組も作っていたことになる。

問い——なぜ同じ道が、何度も売れたのか

ここから本稿の問いに入りたい。

この画家は、東海道の宿場を描いた版画をいくつも作っている。

一組だけではない。同じ五十三の宿場を、別のシリーズとして何度も出している。

当サイトが公開している分だけでも、少なくとも五つの組が確認できる。

最初の大当たりの組、隷書体の題字を使った組、狂歌を添えた組、
行書体の組、そして別の版元による組である。

同じ道を、同じ画家が、繰り返し描いて売った。

なぜそれが商売になったのか。

そして、繰り返すたびに絵はどう変わったのか。

九点の版画を並べて確かめていきたい。

先に結論を書いておく。

繰り返し売るために変えられたのは、視点と季節と判型だった。

宿場の名前と順番は変えられない。だから変化は形式の側で作られている。

制約が固定されているほど、工夫は細部に集まる。

もう一つ、宿場の順番という仕組みも効いている。

一枚ずつ買い集めれば、順番に並べられる。

全部揃えたいという気持ちが働く商品設計である。

同じ画家の別の組が出れば、また揃えたくなる。

五十三という数が、収集の目標として機能していた。