作品を知る

魚は、光る面として描かれる——青木木米・カールセン・ヒルほか九点

人魚と蛙のデカンタ
ルネ・ラリック《人魚と蛙のデカンタ》1917年。館の記録では、ガラス。全体は39×16.9センチ。番号は2011.122。クリーヴランド美術館蔵。ルネ・ラリック《人魚と蛙のデカンタ》クリーヴランド美術館蔵

透明なガラスの瓶である。

胴は丸くふくらみ、上へ向かって急に細くなる。

栓は細長い円錐形で、先が尖る。

高さは全体で39センチある。

胴の表面には、浮き彫りがある。

人の上半身が、横たわる形で現れる。

髪が波打ち、腕が体に沿う。

腰から下は、細長い形になる。

鱗のような刻みが並び、先が二つに割れて広がる。

魚の尾である。

その下のほうには、丸い体の生きものが数匹いる。

脚を折り曲げ、水かきが広がる。

蛙である。

ガラスは磨りガラスのように白く曇り、浮き彫りの高いところだけが透ける。

館の記録には、題の意味が書かれている。

人魚と蛙の水差し、という意味だという。

つまりこの魚は、上半分を人に取られている。

九点のうち、魚が体の半分だけになっているのは、この一点である。

ガラスという材料も効いている。

透明な地に白く曇った浮き彫りを置くと、形は光の量で読まれる。

厚いところは白く、薄いところは透ける。

鱗の刻みは、ちょうど中間の厚さで彫られている。

つまり尾は、白と透明のあいだで揺れて見える。

水の中にあるものを、水のように透ける材料で作っている。

栓の細長い円錐も、しずくの形に近い。

器の全体が、水に関わる形でそろえられている。

魚の卵に似せた地に、秋の草が彫られる

八点目には、魚がいない。

金魚子地秋草図金具合口拵・付銀刀
宮田信清《金魚子地秋草図金具合口拵》19世紀半ばから後半。館の記録では、鋼・銀・銅・赤銅・金・鮫皮・鯨鬚・漆。長さ25.1センチ。番号は91.2.75。メトロポリタン美術館蔵。宮田信清《金魚子地秋草図金具合口拵・付銀刀》メトロポリタン美術館蔵

黒い鞘に収まった短刀である。

鞘は真っ直ぐで、表面が漆で黒く塗られている。

つやがあり、光を細く返す。

柄の部分には、金色の金具が付く。

金具は細長く、表面に細かい粒が一面に打たれている。

粒は規則正しく並び、光を散らす。

その粒の上に、草の形が浮かんでいる。

細い茎が伸び、先に穂が付く。

秋の草である。

鞘の中ほどにも、同じ金具が二つ嵌まっている。

館の記録では、材は鋼、銀、銅、赤銅、金、鮫皮、鯨鬚、漆である。

八種類の材料が、長さ25.1センチの一本に集まっている。

そして題には、魚の字が入っている。

粒を一面に打った地のことを、魚の卵に見立てて呼ぶからである。

つまりここでの魚は、金属の表面の名である。

画面にも、彫刻にも、魚はいない。

刀装具の材料の呼び名については、合金の名で扱った。

粒を打つ作業も考えておきたい。

一つの粒は、直径が一ミリに満たない。

それを面いっぱいに、乱れなく並べて打つ。

金具一つで、数千の粒になる。

その上に、細い草の形を残して彫る。

つまり地のほうに、はるかに多くの手間がかかっている。

主題は秋の草だが、時間は魚の卵に似た地に使われている。

そして題は、その地の名を先に置いている。

名前の中の魚

最後の一点も、魚がいない。

ニコラス・フィッシュ夫人(エリザベス・スタイヴェサント)の肖像
ジョン・カーリン《ニコラス・フィッシュ夫人の肖像》1848年。館の記録では、象牙に水彩。画面は9.8×8センチ。番号は2006.235.22。メトロポリタン美術館蔵。ジョン・カーリン《ニコラス・フィッシュ夫人(エリザベス・スタイヴェサント)の肖像》メトロポリタン美術館蔵

たいへん小さな肖像である。

9.8×8センチしかない。

赤い革の箱に収められ、金色の枠がはめてある。

その中に、年配の女性が描かれている。

黒い衣を着て、首もとに白い襟が見える。

髪は白く、中央で分けて左右へ流している。

顔はこちらを向き、目が正面を見る。

口は結ばれている。

背は赤い椅子にあずけられている。

両手は前で組まれている。

背景は褐色で、何も描かれていない。

館の札は「肖像」と「女性」の二つである。

題には、この人の夫の姓が入っている。

その姓は、英語で魚を意味する語と同じである。

しかし画面には、魚はいない。

象牙に水彩で描くこの種の小さな肖像は、手に持って見るものだった。

象牙は薄く削ると透ける。

その下から光が回るので、肌の色が生きて見える。

顔の陰も、絵の具を厚く置かずに作られている。

つまり材料そのものが、肌の表現を助けている。

赤い革の箱に収めれば、持ち歩くこともできる。

九点のうち、持ち歩ける大きさなのは、この一点と盃だけである。

作者については、音のない世界で扱った。

数えてみると

九点を並べ直す。

魚が生きているのは、二点である。

盃の底の一匹と、網に上げられる大きな魚。

もっとも、網の魚は上げられている最中である。

死んで台に載っているのは、二点である。

売られようとしているのが一点、画面の外にいるのが一点。

そして三点では、魚は魚ではない。

半分だけの人魚、金属の粒の地の名、そして人の姓。

もう一つ数えておく。

九点のうち、鱗が一枚ずつ描き分けられているのは三点である。

盃の底の鯛、網の中の大きな魚、そして人魚の尾。

静物の魚には、鱗が描かれていない。

光る面として塗られているだけである。

新しさを示すのは、鱗の形ではなく、光り方である。

目についても数えておきたい。

盃の鯛、網の魚、静物の二点では、目が丸く描かれている。

死んだ魚の目は濁るが、絵の中では濁っていない。

丸く、黒く、光を返す点として置かれている。

つまり絵は、新しさのほうを選んで描いている。

言えることと、言えないこと

言えるのは、魚が「表面」で描かれる獣だということである。

牛は体の側面で、鹿は角の枝で値打ちを示していた。

魚では、体の光り方がその役をしている。

静物の二点でも、写真の一枚でも、魚はまず白く光る面として現れる。

言えないのは、魚がつねに食べものだという話である。

盃の底の鯛は、祝いのしるしとして描かれていた。

凍った岸の一葉では、魚は詩の中にだけいた。

見えない魚を、詩が呼び出している。

そして三点では、魚の字だけが器物と人に残っていた。

最後に、はじめの盃へ戻る。

底の鯛は、酒を注げば見えなくなる。

飲めば、また現れる。

見えたり見えなくなったりすることが、この一匹の役目である。

水の中の獣を描くのに、これほど的確な置き場所はない。

九点を数え終えて残るのは、その底の一匹のほうである。

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