天体の月と、暦の月——岳翁蔵丘の周辺・杜堇・ナヤほか九点
月は、円で足りる
天体の月の描き方を見たい。
四点とも、月は単純な形である。
白い円か、細い弧である。
模様も、影も描かれていない。
実際の月には、暗い模様が見える。
だが、四点のいずれにもそれがない。
理由は、大きさだろう。
画面のなかの月は、たいてい小さい。
小さな円に模様を入れても、読めない。
例外は、観音の掛幅である。
そこでは、月が画面の幅の三分の二を占める。
それでも、模様は描かれていない。
輪郭をぼかした、白い円だけである。
つまり、月は記号として描かれている。
前に雲を扱った回で、記号としての雲と観察の雲を分けた。
月には、その区別がほとんどない。
九点の四点とも、記号の側にある。
観察して描かれた月は、一点もなかった。
月は、いつも同じ大きさに描かれない
四点の月の大きさを比べたい。
観音の掛幅では、月が画面の幅の三分の二を占める。
これは、実際の見え方とはまったく違う。
夜空の月は、腕を伸ばした指の先ほどに見える。
画面に写せば、ごく小さな円になる。
写真の一点では、実際にそうなっている。
雲の切れ目の小さな光である。
つまり、四点のあいだで月の大きさは何十倍も違う。
大きく描くのは、月が主題だからである。
小さく描くのは、月が条件にすぎないからである。
前に山や塔を扱った回では、目盛りの話をした。
大きさを示すには、比べるものが要る。
月の場合、比べるものが空にない。
だから、いくらでも大きく描ける。
見る人も、それを受け入れる。
大きな月を見て、おかしいとは思わない。
月は、そういう扱いを許される数少ないものである。
太陽も同じだろう。
九点のなかで、この自由がいちばん出ているのが観音の掛幅である。
人の背丈より大きな月が、背後に置かれている。
月は、水に映る
もう一つ、数えておきたいことがある。
九点のうち二点で、月が水に映っていた。
観音の掛幅と、ヴェネツィアの写真である。
前者では、水面の小さな円が第二の月になる。
館の記述によれば、それは移ろいの象徴だという。
後者では、水面に光の帯が伸びる。
ただし、その光は陰画に手で描き加えられたものである。
つまり、映り込みそのものが人の手で作られている。
写真でありながら、映り込みは絵である。
館は、そのことをはっきり書いている。
描き忘れた灯まで指摘している。
こういう記述は、写真の見方を変える。
写っているものが、すべて写ったものとは限らない。
前に、記録の疑問符や偽の署名を扱った。
今回は、画面そのものへの加筆である。
館がそれを書き残しているおかげで、こちらも書ける。
記録は、月齢を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、月の形や日付を書く欄はない。
例外は、題に日付の入った一点である。
十一月十八日、と書かれている。
だがそれは、描かれた出来事の日付である。
その日の月がどうだったかは、書かれていない。
そして画面にも、月は描かれていない。
つまり、日付と月は結び付いていない。
日本語では、月の字が両方を指す。
英語では、天体と暦で別の語である。
だから英語の記録を機械で引けば、この四点は混じらない。
日本語で引くと、混じる。
言語によって、集まる顔ぶれが変わる。
当社は日本語の題を作る立場なので、この差を引き受けている。
引き受けたうえで、外れも並べている。
今回は、その外れが四点あった。
四点とも、暦の月である。
天体の月と暦の月が、同じ字で並んでいる。
その事実自体が、この回で数えられたことである。
そして、この一致は偶然ではない。
暦の月が、天体の月から名を取ったからである。
満ち欠けの周期が、日を数える単位になった。
その関係が、字に残っている。
英語でも、月を意味する語と月数を意味する語は語源が同じである。
ただし、綴りが分かれた。
日本語では、分かれなかった。
だから日本語で引くと、両方が集まる。
言語ごとの事情が、検索の結果に出る。
前の回でも、同じことを何度か書いた。
林の字、野の字、島の字。
いずれも、一字が複数の意味を持っていた。
今回の月の字は、そのなかでも関係の近い例である。
林檎と林は無関係だが、月と月数は関係がある。
無関係な一致と、関係のある一致。
九点の外れは、後者の側にあった。
そのぶん、外れとしての面白さは少ない。
だが、語の歴史を示す材料にはなる。
天体の名が、時間の単位になった。
その痕跡が、四点の題に残っている。
一か月分の繕い物、十月の朝、十一月の探検隊、断崖と十一月。
四点とも、月の光とは何の関係もない。
それでも、同じ字で呼ばれている。
字を共有しているかぎり、機械はこの四点を拾う。
拾ったものを削るかどうかは、こちらの判断である。
今回も、削らずに並べた。
削れば、選定の基準が曖昧になるからである。
そして、削らないことで得られるものもある。
今回でいえば、繕い物の水彩がそれである。
一か月ぶん溜まった布を、一人で繕っている。
籠には、丸めた布が山になっている。
窓辺には、鉢植えが並ぶ。
月の回でなければ、この一点に触れることはなかった。
同じことは、十月の朝の油彩にも言える。
黄と橙の葉が、画面いっぱいに広がっていた。
月とは無関係だが、秋の絵として静かである。
外れは、思わぬ作品に出会う機会でもある。
九点のうち四点が外れというのは多いほうだが、そのぶん幅は広くなった。
観音の掛幅から、繕い物の水彩まで。
同じ字で集まった九点が、これだけ離れている。
離れているものを一つの回に入れるのは、無理があるとも言える。
だが、無理があることを書いておけば読者は判断できる。
なぜこの九点が並んだのか。
理由は、日本語の月の字が二つの意味を持つからである。
その一点だけを説明すれば、あとは読む人の自由である。
天体の月の四点だけを見てもよい。
暦の月の四点だけを見てもよい。
九点まとめて、字の話として読んでもよい。
どの読み方でも、図版は同じ九点である。
並べ方だけが、こちらの仕事になる。
今回は、天体の月から先に並べ、暦の月を後に置いた。
逆にすることもできた。
どちらでも、九点は同じである。










