作品を知る

兎は、上下が入れ替わると死ぬ——北秀・ゲラール・ウードリーほか九点

九点の兎を数えると、生きている兎は耳を立てて同じ方向を見ていた。死んだ兎は逆さに吊るされ、耳が垂れている。上下が反転することが、そのまま生死の合図になる。題にしかいない兎も一羽まじっていた。耳を立てているのは、生きて自由な兎だけである。

月下の兎
葛飾北秀《月下の兎》メトロポリタン美術館蔵

大きな月の下に、白い兎が一羽うずくまる

画面の上半分を、丸い月が占めている。

月の面は淡い灰色で、下の縁だけがぼかされている。

そのまわりに、青い雲が横に流れる。

月の下は雪の原である。

白い地の上に、うっすらとした起伏が刷かれているだけである。

その雪の上に、兎が一羽うずくまっている。

体は真っ白で、背中が丸く盛り上がる。

耳は二本、後ろへ倒れている。

目は小さな点で、赤みを帯びている。

前脚は雪に埋まり、輪郭が消えている。

兎のすぐ左に、枝が一本ある。

枝には黄色い実と、薄紅の花が付いている。

画面の上には、細かい文字が縦に何行も書かれている。

紙のところどころが、金色に光っている。

月下の兎
葛飾北秀《月下の兎》1819年。館の記録では、木版の摺物、紙に墨と色と金属顔料。色紙判で20.6×18.4センチ。番号はJP2167。メトロポリタン美術館蔵。葛飾北秀《月下の兎》メトロポリタン美術館蔵

館の記録では、これは摺物と呼ばれる版画である。

摺物は、詩を添えて配るために作られた私家版の刷り物である。

紙は色紙判で、20.6×18.4センチしかない。

その小さな面の中に、月と雪と兎と花と文字が収まっている。

館の札は「兎」「月」「花」「雪」の四つである。

四つとも、画面の中で同じくらいの重みを持っている。

つまりこの一枚では、兎は主役でありながら、四分の一でもある。

金属の顔料が使われているので、光の当たり方で表面が変わる。

雪の白と、月の灰色と、金の粒。

版画でありながら、刷りの手間が惜しみなくかけられている。

そして文字である。

上部の余白に、細かい行が七つほど縦に並ぶ。

摺物は、多くの場合、詩を配るための紙である。

絵はその詩に添えられる図であって、絵のほうが主とは限らない。

つまりこの兎は、言葉のとなりにいる兎である。

月と雪と花という取り合わせも、季節と時刻を一度に示す型である。

一枚の中に、いつ、どこ、なにが揃っている。

小さな紙で多くを伝えるための、圧縮された組み合わせである。

兎は、どこにいるか

この一枚を出発点に、兎の絵を九点数えていく。

兎は、狩られる獣である。

同時に、月にいるとされ、時刻の名にもなり、贈り物にもなる。

小さく、弱く、数が多い。

そのため、絵の中の兎は、たいてい何かの脇に置かれる。

先に言ってしまうと、九点のうち、兎が生きて草や雪の上にいるのは四点である。

二点では、兎は死んで吊るされるか、積み上げられている。

一点では、贈り物として差し出されている。

一点では、時刻の名として題に入っている。

そして一点では、眠る子どものそばへ近づいてくる。

前の回で鹿が角の枝を数えられる獣であることを見た。

兎には角がない。

数えられるのは、頭数だけである。

白と黒の兎が、二羽向かい合う

二点目は、木版である。

兎
アンリ・シャルル・ゲラール《兎》1893年。館の記録では、木版。図は33×23.1センチ。番号は1992.243。クリーヴランド美術館蔵。アンリ・シャルル・ゲラール《兎》クリーヴランド美術館蔵

縦長の画面が、白と黒に分かれている。

左には、黒い兎が一羽。

体はすべて黒く塗りつぶされ、輪郭だけで形が分かる。

耳は二本、まっすぐ上へ立っている。

目も、鼻も、口も描かれていない。

黒い塊の中に、白い点がひとつあるだけである。

右には、白い兎が一羽。

こちらは輪郭線と、体の毛を示す短い線で描かれている。

耳の内側には、細かい線が縦に並ぶ。

目は丸く、まつげまで描かれている。

前脚は胸の下に折りたたまれている。

二羽は互いに向き合っている。

背景は、上のほうが黒く、下が白い。

つまり黒い兎は明るい地に、白い兎は暗い地に置かれている。

館の記録では、作者は当時「パリの日本人」と呼ばれていた。

だから、この作品の様式のもとが日本の画家にあるのは自然だという。

その画家は、動物の木版を数多く作った人である。

館の記録は、そう書いている。

日本の版画が西洋の画家をどう変えたかは、浮世絵が西洋の絵を変えたで扱った。

ここで起きているのは、様式の移動である。

黒く塗りつぶす面と、線だけで描く面。

その二つを一枚に並べることが、この画面の主題になっている。

兎はその二つの描き方を見せるための、同じ形の二つの見本である。

紙の大きさも見ておきたい。

紙は59.5×42.2センチあるのに、図は33×23.1センチしかない。

つまり周囲に広い余白が残されている。

余白の白は、白い兎の白と同じ紙の色である。

図の外にも白があり、図の中にも白がある。

黒い兎の輪郭だけが、その連続を断ち切っている。

木版という技法は、彫り残した面が黒くなる。

黒い兎は彫り残され、白い兎は彫り取られている。

同じ板の上で、二羽は正反対の作られ方をしている。

兎は、三つの教えの一つを担う

三点目は、中国の画帖の一葉である。

象と馬と兎
閔貞《象と馬と兎》1788年。館の記録では、紙本墨画の画帖の一葉。画は29×18.4センチ。番号は1985.71.1。クリーヴランド美術館蔵。閔貞《象と馬と兎》クリーヴランド美術館蔵

薄い墨で、三頭の獣が重なっている。

いちばん大きいのは象である。

体は霞のような灰色の塊で、鼻が下へ長く垂れる。

牙が二本、白く抜かれている。

耳は大きく、輪郭がぼやけている。

その象の腹の下あたりに、馬がいる。

体は細く、脚が長い。

輪郭線だけで描かれ、内側は白いままである。

そして画面の下のほうに、兎がいる。

さらに小さく、耳が二本、後ろへ寝ている。

三頭は同じ方向を向いている。

大きさは、象、馬、兎の順に小さくなる。

館の記録では、この一葉は競い合いを表しているように見えるという。

そして、贈られた相手の関心と結び付けて読んでいる。

象は仏教、馬は儒教、兎は道教にあたるという。

館の記録は、そう推測している。

断定はしていない。

同じ画帖の別の一葉は、猫の回で見た。

そちらでは猫と蝶が、老いを祝う音の重なりになっていた。

こちらでは、三頭の獣が三つの教えに割り振られている。

どちらも、獣が獣以外のものを指している。

そして館は、もう一つ書き添えている。

作者は都に十年ほど滞在し、そのあいだに宮廷の動物園で象を見たかもしれないという。

見たかもしれない、という書き方である。

墨の使い方も三頭で違う。

象はにじみだけで作られ、輪郭線がほとんどない。

馬は輪郭線だけで、内側が塗られていない。

兎はその中間で、背中に薄い墨が刷かれている。

三つの描き方が、一枚の紙の上に並んでいる。

大きさの順と、墨の濃さの順は一致していない。

いちばん濃いのは象で、いちばん薄いのは馬である。

兎はそのあいだにいて、目立たない位置に置かれている。

丸太の上に、兎が三羽

四点目は、草地の兎である。

丸太の上の兎
アーサー・フィッツウィリアム・テイト《丸太の上の兎》1897年。館の記録では、油彩・カンヴァス。画面は25.4×30.8センチ。番号は1979.490.7。メトロポリタン美術館蔵。アーサー・フィッツウィリアム・テイト《丸太の上の兎》メトロポリタン美術館蔵

横長の小さな画面である。

25.4×30.8センチしかない。

画面の中央を、倒れた丸太が斜めに横切る。

樹皮は剥げ、木の肌が灰色に見える。

その丸太の上に、兎が一羽座っている。

耳は長く、二本とも立っている。

顔は左を向き、目が黒く光る。

丸太の下、草の中にも兎がいる。

左に一羽、中央に一羽。

どちらも体を低くし、耳を立てている。

三羽とも、同じ方向を見ている。

背景は明るい緑の茂みで、上のほうが黄色く光る。

地面には草と、小さな白い花が咲いている。

館の札は「兎」の一語だけである。

記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

前の回で見た鹿の写生も、同じ画家の手になるものだった。

そちらは題に「自然からの写生」と付いていた。

こちらには付いていない。

同じ画家が、鹿には写生と書き、兎には書かなかった。

理由は記録に書かれていない。

推測できるのは、鹿と兎で見る機会が違ったということである。

鹿は森へ行かなければ会えない。

兎は庭にも畑にも出てくる。

わざわざ写生と書かなくても、見て描いたことが疑われない。

もっとも、これは絵の外の事情からの推測である。

画面から言えるのは、三羽が同じ方向を見ているということだけである。

同じ方向を見ているのは、同じものに気づいたからである。

何に気づいたのかは描かれていない。

卯の刻という名の、兎のいない一枚

五点目には、兎がいない。

卯の刻、姿海老屋のすがたの(廓の十二時より)
菊川英山《卯の刻、姿海老屋のすがたの(廓の十二時より)》1812年。館の記録では、多色木版、紙に墨と彩色。紙は37.8×25.3センチ。番号は1985.303。クリーヴランド美術館蔵。菊川英山《卯の刻、姿海老屋のすがたの(廓の十二時より)》クリーヴランド美術館蔵

縦長の版画である。

女がふたり、寄り添って立っている。

手前の女は黒地の着物を着ている。

裾には赤と白の模様が大きく広がる。

髪には櫛と簪が何本も挿してある。

顔は右を向き、目を伏せている。

その後ろに、もうひとりの女が立つ。

こちらも黒い上着を羽織り、下に薄い色の着物を重ねる。

手には白い布を持っている。

足もとには、赤い履物と、緑の小物が置かれている。

画面の右上には、枠に囲まれた題が入る。

背景は塗られておらず、紙の色のままである。

館の記録では、この一枚は「廓の十二時」という連作の一枚である。

十二の時刻を、それぞれ一枚ずつ描いた組である。

この一枚は卯の刻、つまり朝にあたる。

卯は十二支の四番目で、兎を指す。

つまり題には兎の字が入っている。

しかし画面には、兎は一羽もいない。

描かれているのは、朝の見世の二人である。

時刻の名として使われるとき、兎は姿を消す。

九点のうち、兎が題にだけいるのは、この一点である。

十二の時刻を十二枚に分けるという作り方も見ておきたい。

一枚ずつでは、ただの二人の姿である。

十二枚そろって初めて、一日が一巡する。

つまり各図の意味は、組の中の位置によって決まる。

卯の刻という札が貼られることで、この二人は朝の二人になる。

同じ絵に別の札を貼れば、別の時刻の絵になっただろう。

獣の名が時刻の名を兼ねるとき、絵は獣から自由になる。

狩りの後、兎は積み上げられる

六点目と七点目で、兎は死んでいる。

狩りの後
ギュスターヴ・クールベ《狩りの後》1859年ごろ。館の記録では、油彩・カンヴァス。画面は236.2×186.1センチ。番号は29.100.61。メトロポリタン美術館蔵。ギュスターヴ・クールベ《狩りの後》メトロポリタン美術館蔵

たいへん大きな縦長の画面である。

236.2×186.1センチある。

人の背丈をはるかに超える。

暗い森の中に、赤い上着の男が立っている。

膝までの茶色の脚衣に、黒い長靴。

右手を上げ、木の枝に何かを掛けようとしている。

顔は横を向き、口髭が見える。

その足もとに、獣が積み上げられている。

白い犬が二頭、身をよじっている。

一頭は口を開け、上を向いている。

その下に、狐が横たわる。

さらに手前に、兎が何羽もころがっている。

耳が長く伸び、体は力なく折れている。

腹を上に向けたものもいる。

左下には、狩りの角笛が置かれている。

館の札は「鳥」「男性」「狩り」「犬」「狐」「兎」の六つである。

つまり館は、この画面を六種類のものの集まりとして登録している。

そして兎は、その六番目である。

この画家の挑発については、挑発で扱った。

九点のうち、兎の数がいちばん多いのはこの一点である。

正確な数は、重なっていて数えきれない。

野兎と仔羊の腿肉
ジャン=バティスト・ウードリー《野兎と仔羊の腿肉》1742年。館の記録では、油彩・カンヴァス。額なしで98.2×73.5センチ。番号は1969.53。クリーヴランド美術館蔵。ジャン=バティスト・ウードリー《野兎と仔羊の腿肉》クリーヴランド美術館蔵

淡い灰色の壁の前に、二つのものが吊るされている。

左は、皮を剥いだ肉の塊である。

白い脂と、赤い筋が見える。

上の端が紐で吊られている。

右は、野兎である。

後ろ脚を上にして、逆さに吊るされている。

体は長く伸び、前脚が下へ垂れる。

耳は頭の後ろへ倒れている。

毛は茶色で、腹のあたりが白い。

顔は下を向き、目は閉じている。

背景には何もない。

影が壁に薄く落ちているだけである。

館の記録は、題と材料と寸法しか書いていない。

見えるのは、二つのものが並べられていることである。

一方は皮を剥がれて肉になり、もう一方はまだ毛皮のままである。

同じ食べものが、二つの段階で並んでいる。

そして毛の描き方が念入りである。

背中の毛は一本ずつ方向が違い、光を受ける面が変わる。

腹の白い毛は、透けるように薄く塗られている。

耳の内側には、細い血管のような線まで引かれている。

死んでいるのに、毛だけが生きているように見える。

画面の大きさは98.2×73.5センチある。

実物の野兎より、はるかに大きく描かれている。

近づいて見ることを前提にした絵である。

兎は、贈り物として差し出される

八点目は、紀元前の壺である。

黒絵式レキュトス(油壺) 女に野兎を差し出すパン
アステアス/ピュトンの工房《黒絵式レキュトス(油壺)、女に野兎を差し出すパン》紀元前330年から320年ごろ。館の記録では、陶器。全体は25.7×12.9センチ。番号は1985.1。クリーヴランド美術館蔵。アステアス/ピュトンの工房《黒絵式レキュトス(油壺) 女に野兎を差し出すパン》クリーヴランド美術館蔵

丸い胴を持つ壺である。

首は細く長く、口が開いている。

胴の表面は淡い赤褐色で、そこに黒い絵が描かれている。

左には、木の幹に腰かけた人物がいる。

脚が獣の形をしている。

片手に細い笛を持っている。

もう一方の手に、小さな獣をぶら下げている。

耳の長い、野兎である。

右には、衣をまとった女が立つ。

両手を幹に置き、前へ体を傾けている。

顔は男のほうを向いている。

二人のあいだに、兎が浮いている。

館の記録では、この壺は油を入れる器である。

黒絵という技法は、この時期にはすでに流行を過ぎていた。

それにもかかわらず、四世紀の後半に少数の器が作られたという。

そしてこの一点は、その中でも複雑で色の多い場面を持つ。

多くは女か鳥をひとつ描くだけの小さな器である、と記録は書く。

山羊の脚を持つ神が、笛と野兎を持って幹に腰かけている。

向かい合う女は、精霊か、月の女神かもしれないという。

館の記録は、そう推測している。

つまりここでの兎は、贈り物として手に持たれている。

生きているのか、すでに死んでいるのかは、形からは分からない。

ギリシアの器の名が題になる事情については、器の名が題になるで扱った。

眠る子どもに、兎が近づく

最後の一点は、大理石である。

眠る幼いファウヌスと好奇心旺盛な兎
エドワード・クラーク・ポッター《眠る幼いファウヌスと好奇心旺盛な兎》1887年から89年。館の記録では、大理石。28.5×98.5×40.8センチ。シカゴ美術館蔵。番号は1891.64。エドワード・クラーク・ポッター《眠る幼いファウヌスと好奇心旺盛な兎》シカゴ美術館蔵

平たい台の上に、幼い子どもが横たわっている。

体は右を下にして、脚を伸ばしている。

腕は頭のほうへ投げ出されている。

顔は台に押し付けられ、目を閉じている。

髪は短く巻いている。

耳のあたりが、わずかに尖っている。

腰から下には、獣の毛のような彫りがある。

そして子どもの足のそばに、兎がいる。

体を低くし、前脚を伸ばしている。

耳は後ろへ寝ている。

顔は子どものほうを向いている。

台の長さは98.5センチある。

高さは28.5センチしかない。

つまりこの彫刻は、床に近い高さで横に長く伸びている。

館の記録では、題に「好奇心旺盛な」という語が入っている。

つまり兎は、近づいてくるところである。

眠っている者と、近づく者。

彫刻の中では、その二つは永久に動かない。

そして大理石という材料は、毛も肌も同じ色にしてしまう。

子どもの肌と、兎の毛と、台の面が、すべて同じ白である。

区別しているのは、彫りの深さだけである。

肌は磨かれて滑らかに、毛は細かく刻まれている。

触れば違いが分かり、離れて見れば一つの塊に見える。

九点のうち、兎と人が触れそうな距離にいるのは、この一点だけである。

触れてはいない。

数センチの隙間が、白い石の中に残されている。

数えてみると

九点を並べ直す。

兎が生きて、地面や雪の上にいるのは四点である。

月の下の一羽、向かい合う二羽、丸太の三羽、そして大理石の一羽。

画帖の一葉を加えれば五点になるが、そこでは兎は教えの記号である。

死んでいるのは二点である。

積み上げられた狩りの成果と、逆さに吊るされた一羽。

差し出されているのが一点、題にだけいるのが一点である。

もう一つ数えておく。

九点のうち、兎の耳が立っているのは三点だけである。

木版の二羽と、丸太の上の三羽。

残りでは、耳は後ろへ倒れているか、下へ垂れている。

耳が立つのは、警戒しているときである。

生きて自由でいる兎だけが、耳を立てている。

もっとも、月の下の一羽は耳を寝かせていた。

雪の上で丸くなっているので、警戒していないのだろう。

眠っているのかもしれない。

摺物という紙の性質を考えれば、めでたい図として選ばれた姿でもある。

耳の向き一つで、その場の空気が変わる。

言えることと、言えないこと

言えるのは、兎の絵が「数」と「向き」で読めるということである。

生きている兎は複数で描かれ、耳を立て、同じ方向を見ている。

死んだ兎は逆さになり、耳が垂れる。

上下が反転することが、そのまま生死の合図になっている。

言えないのは、兎が弱いものとして描かれてきたという話である。

大理石の一点では、眠る子どもに兎のほうから近づいていた。

木版の二羽は、こちらを見返す目を持っていた。

月の下の一羽は、画面のほぼ中央にいた。

小さいことと、脇に置かれることは同じではない。

最後に、はじめの一枚へ戻る。

摺物の兎は、雪の上で丸くなり、耳を寝かせていた。

眠っているようにも、寒さに耐えているようにも見える。

しかし体の下には影がなく、雪と体の境目が消えている。

白い紙の上の白い兎は、輪郭だけで生きている。

九点を数え終えて残るのは、その消えかけた輪郭のほうである。

RELATEDあわせて読みたい

作品を知るの記事一覧