食卓の絵で、献立はほとんど読めない——デューラー・ゴッツォリ・コールテほか九点

三枚の紙をつないだ、横73.7センチの画面である。
松を描いた襖の前に、女たちが十人あまり集まっている。
中央には、赤い布に包まれた細長い楽器が横たわる。
その手前で、縞の着物の女が燭台を立てようとしている。
白い蝋燭に、火はまだ入っていない。
左では、黒い箱を前にして、二人が向かい合う。
右のいちばん端には、黒い高坏が置かれている。
その上に、黄色いものが盛られている。
そばの畳には、小さな杯が一つ。
各紙の上には、細かい字の書き入れが並ぶ。
三枚とも、上の隅に署名がある。
さて、色は十分に付いている。
着物の柄も、襖の松も、赤い布も、はっきり摺り分けられている。
それでも、高坏の上のものが何なのかは分からない。
黄色い、という以上のことは言えない。
墨だけの宴でも、色刷りの宴でも、器の中身は読めないままである。
百二十年のあいだに増えたのは、色と、画面の幅だった。
献立についての情報は、一つも増えていない。
館の記録も短い。
作者と年代と、三枚続きという作りと、寸法だけである。
分類の札には、女と宴の二語しかない。
そして出所の欄に、見覚えのある行が出てくる。
この三枚続きも、前の二枚と同じ人の遺贈で、同じ1914年に館へ入っている。
一人の収集家の手を通って、江戸の宴の絵が二種類、同じ年に海を渡った。
宴の絵は、こうしてまとめて集められ、まとめて残る。
題には、夜の語も入っている。
蝋燭に火が入るのは、これからである。
夕方は人の行動に写ると数えた回の、その先の時刻だ。
ここで、一度数えておく。
九点のうち、食事や宴の場面は四点ある。
その四点で、口に入るものの名を言えたのは一点だけだった。
デューラーのパンと杯である。
しかもそれは、絵から読めたというより、物語が先に教えてくれた。
宴の絵は、献立を描かない。
誰が集まり、どんな部屋で、どう座ったか。
食卓の絵が写すのは、まず人の配置である。
卓は、画面のどこに置かれるか
ここで、卓の置き場所も数えておきたい。
食卓を画面の真ん中に据えた絵は、デューラーの一点だけである。
ゴッツォリの卓は右の壁ぎわに寄り、歌麿の高坏も右の端に置かれている。
師宣と歌麿に至っては、卓そのものがない。
宴の絵ほど、卓は脇へ追いやられる。
理由は、床にある。
踊り手のために、物語のために、画面の中央は空けておきたい。
卓を正面に据えると、場面がそこで止まってしまうのである。
デューラーが卓を中央に置けたのは、食卓そのものが物語だからだ。
パンと葡萄酒の一瞬が主題なら、卓こそが舞台になる。
卓の位置は、その絵で食事がどれほど大事かを示す目盛である。
近づけば、読める
では、食べ物の名が読める絵はないのか。
ある。
ただし、そこには誰もいない。

暗闇の中、石の台の縁に、実をつけた小枝が一本置かれている。
赤く透ける実が、十粒あまり。
葉の筋も、実の皮の縞も、一本ずつ数えられる。
実の一つは、台の縁から軸を垂らして、いまにも落ちそうである。
とげのある枝の先には、しおれた花びらも残る。
グーズベリー、和名では西洋すぐりである。
種類の名まで言える食べ物は、九点でこれだけだ。
館の記録では、コールテはオランダの港町ミデルブルフで働いた。
グーズベリーは野でも摘める、つつましい土地の楽しみだったという。
十七世紀のオランダの庭師たちは、味をよくするための栽培も始めていた、とある。
強い光が小さな実に当たり、暗い地が皮の透明さを際立たせる。
実の皮は、はちきれる寸前だと記録は書く。
食べごろの一瞬が、そのまま止められている。
静物には必ず台があるという回で見たとおり、この絵にも石の台がある。
台の正面には、署名と1701年の年記が書き込まれている。
卓は、ここでは食事の場所ではない。
食べ物を一つだけ載せて、見せるための台である。
卓の上の果物と硝子を描いたピールの回でも、食卓は同じ役を務めていた。
食べる場面から人を引き算すると、献立がようやく読める。
絵のなかの食事は、近づくか、にぎわうか、どちらかなのである。
器は、料理より長生きする
食卓には、絵に描かれない住人がいる。
器である。

白い磁器の食器揃である。
蓋付きの椀、杯、大小の皿。
膳の一人前が、四つの型でそろっている。
表面には、割れた氷のような線の上に、梅の枝が浮き彫りにされている。
氷裂に梅、つまり早春の意匠である。
縁には細い金の線が引かれ、乳白色の肌を締めている。
椀は高さ7.5センチと、手のひらに収まる大きさである。
館の記録では、どの器にも金の顔料で署名が入っているという。
作った清風与平は、京都の焼き物を海外の市場へ届ける事業に関わった人である。
1873年には京都府の勧業場の御用を務めた、とある。
神戸の港から世界へ、という京都の焼き物の新しい売り方の中にいた。
1875年からは、日本の陶磁を国外に紹介する国の仕事にも加わったという。
その最中の、亡くなる前の数年に作られた食器揃である。
弟子の三代の若い仕事ではないか、という説も記録は併記している。
豆知識の欄によれば、器を納める四つの箱には、朝鮮風と書かれているそうだ。
白い肌の手本を、海の向こうに求めた器である。
この食器揃は、絵ではない。
だが、食卓の絵の欠けを埋めてくれる。
絵が描かなかった椀と皿の実物が、こうして残っているからである。
盛られた料理は消え、器だけが美術館に着いた。