五点が組物で、三点は欠けている——アルトドルファー・栄之・安堅の周辺ほか九点
人は、どこに立っているか
九点で、人の立つ位置を見たい。
堂の中にいるのが、四点。
堂の外にいるのが、二点。
堂へ向かう途中にいるのが、一点である。
残る二点には、人がいない。
崩れた神殿の絵には、羊飼いらしい姿が数人いる。
だが、神殿に用があるようには見えない。
寺院の写真には、人が写っていない。
館の記述によれば、境内には彫像が立つ。
人ではなく、人の像である。
背を向けているので、顔は見えない。
寺を建てた人の像が、寺のほうを向いている。
写真は、その背中をこちらに向けている。
つまり、写真を撮った人は像の後ろに立った。
寺を正面から撮ろうとすると、そうなる位置である。
像は、寺を見る位置に置かれていた。
その位置を、写真家が奪う形になっている。
これは推測だが、画面からはそう読める。
館の記録は、像が背後から見えるとだけ書いている。
組で作られたものが、多い
今回の九点には、はっきりした特徴があった。
単独で作られたものが少ない。
四十枚の連作の一枚が、一点。
三枚続きの左が、一点。
対になった掛幅が、一点。
二枚組の油彩が、一点。
八つの景のうちの二つを描いたものが、一点。
数えると、九点のうち五点が組物である。
しかも、そのうち三点は組が欠けている。
四十枚のうち一枚しかない。
三枚続きの中央が失われている。
四枚組の写しが二枚だけある。
寺や社の絵は、組で作られることが多い。
理由は、たぶん場所の性質にある。
儀式には順序があり、物語には場面がある。
一枚では収まらないので、複数枚に分ける。
分けたものは、後の時代に離ればなれになる。
館の記録は、その欠けを正直に書いている。
中央がない、と書く。
四十枚のうち八枚だけがある、と書く。
欠けを書くことは、記録として重要である。
書かなければ、これで全部だと思われてしまう。
掛幅は、絵より表装が長い
寸法の書き方を、もう一度見ておきたい。
東アジアの二点は、寸法が二通り以上書かれている。
対幅のほうは、三通りあった。
画面が89.9×45.4センチ。
表装まで含めて198.8×61センチ。
軸の端の飾りまで含めて198.8×70.8センチ。
つまり、飾りの部分だけで幅が九.八センチある。
高さで見ると、絵は全体の半分に満たない。
掛けたときに目に入るのは、絵より表装のほうが広い。
もう一点の掛幅は、全体で158×63.5センチとだけ書かれている。
こちらは、画面だけの寸法が記録にない。
館によって、書き方が違う。
同じ形式の作品でも、比べにくい。
前に巻子を扱ったときにも、同じ問題があった。
巻子では、全長の大半が後世の書き込みだった。
掛幅では、上下の表装が画面を挟む。
いずれも、作品の本体と支える部分を分けて測っている。
その区別を書くかどうかは、館の判断による。
公開データを横断して数えるときは、この差に注意が要る。
高さだけを機械的に並べると、掛幅が異様に大きく出る。
寺は、境目として描かれる
数えた結果から、一つのことが言えそうである。
寺や社の絵では、境目が繰り返し出てくる。
階段を上る場面が二点。
橋を渡る詩が一点。
門をくぐる場面はないが、堂の入り口が三点に描かれる。
いずれも、外から内へ入る動きである。
寺は、日常と非日常を分ける建物である。
だから、その境目が絵になりやすい。
階段はその代表である。
段を上るあいだ、人はどちらにも属していない。
聖母の神殿奉献が二点とも階段の場面なのは、そのためだろう。
物語の中身は、幼い子が親から離れて堂へ入ることである。
その移動を示すのに、階段はちょうどよい。
前に階段を扱った回でも、上下の差が力の差になると書いた。
ここでは、上下の差が世界の差になっている。
同じ段が、別のことを示している。
音を、絵で示す
対幅の一方は、題に鐘の音が入っていた。
煙る寺の晩鐘、という題である。
音は、絵に描けない。
それでも題は音を指している。
画面には、霧と水と木立と、小さな屋根がある。
鐘そのものも描かれていない。
見る人は、題を読んで音を補う。
これは、東アジアの絵によくある仕組みである。
八つの景の題は、いずれも音や時刻や天候を指す。
夕暮れ、夜の雨、帰る雁、晴れた嵐。
いずれも、形のないものである。
形のないものを題にして、形のあるものを描く。
その差を、見る人が埋める。
前に音楽を扱った回でも、同じ話をした。
そのときは、楽器と姿勢と楽譜で音を示していた。
今回の一点には、そのどれもない。
あるのは、霧と、遠い屋根だけである。
題がなければ、音の話だとは分からない。
館の記録が題を残しているから、そう読める。
題は、画面にないものを保存する場所でもある。
記録は、信仰の中身を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、そこで行われる祈りの中身を書く欄はない。
書かれるのは、材と寸法と番号と出所である。
記述の欄には、場面の説明が入ることがある。
誰が誰に何をしているか。
いつ、どこで行われた儀式か。
だが、その儀式の意味までは書かれない。
祭の名と、そこで写本が読まれることは書かれる。
なぜ読むのかは書かれない。
これは、館の立場としては当然である。
美術館は、信仰の解説をする場所ではない。
作品の記録を残す場所である。
当社も同じ立場を取る。
画像から見えることと、館の記録に書かれたことだけを書く。
儀式の意味や、信仰の当否には立ち入らない。
今回の九点には、複数の宗教の建物が含まれていた。
いずれも、館の記録に沿って書いた。
そこから先は、書く材料がない。
材料がないところでは、書かないほうがよい。










