泉の語が、春を連れてきた——ルグロ・コルベ・カランザほか九点
花が、五点に描かれている
九点で、花を数えたい。
花が描かれているのは、五点である。
いずれも、春を主題にした作品だった。
籠に盛られた花、髪に挿した花、衣の模様の花。
そして、浮き彫りの中央にも花を持つ人物がいる。
下絵の衣の裾にも、白い花の模様がある。
つまり、春を示すのは花である。
これは、当たり前のようで、決まりごとでもある。
館の記述にも、そのことが書かれていた。
籠を満たす花と、周りに生える草が春の訪れを示す、と。
つまり、花は季節の記号として使われている。
一方、泉を描いた三点には、花がない。
あるのは、石と水と草だけである。
草は大きく描かれるが、花は付いていない。
銅版画の巨大な草にも、花はない。
葉と茎だけである。
つまり同じ語で集まった九点が、花の有無できれいに分かれた。
五点に花があり、三点にない。
残る一点は金貨で、月桂の葉がある。
葉はあるが、花ではない。
一つの語が、水と季節を指す
外れが多い理由は、はっきりしている。
英語で泉を意味する語が、季節の春も指すからである。
なぜ同じ語なのかは、語源の話になる。
湧き出ること、跳ね上がること。
水が地から湧くことと、草が芽吹くこと。
その二つが、同じ動きとして捉えられたのだろう。
日本語では、泉と春は別の語である。
だから日本語の題だけを見れば、この五点は混じらない。
英語の題を見ると、混じる。
前に月の字を扱った回では、逆のことが起きた。
日本語では天体と暦が同じ字で、英語では別の語だった。
今回は、英語で同じ語、日本語で別の語である。
つまり、どちらの言語で引くかで結果が変わる。
当社は両方で引いているので、両方の一致が混じる。
その代わり、集まる幅は広くなる。
泉の絵には、人がいる
水の出る場所を描いた三点で、人を数えたい。
人がいるのは、二点である。
素描の噴水には、彫刻の子どもがいる。
だが、それは石の像である。
生きている人ではない。
銅版画には、二人が座っている。
写真には、人がほとんど写っていない。
つまり、実際に水を汲む人は一人も描かれていない。
これは意外である。
泉や井戸は、水を汲む場所である。
町の女性たちが集まる場所でもあった。
だが、九点にはその場面がない。
理由は、集めかたの偏りかもしれない。
三点しかないので、たまたまそうなった可能性が高い。
前に市場や広場を扱った回では、人が大勢いた。
泉も、本来はそういう場所である。
九点では、その姿が拾えなかった。
春は、人の姿で表される
春を主題にした五点を見ると、共通点がある。
五点のうち三点で、春が人の姿で表されている。
花を持つ女性、花を髪に挿す少女、花の女神。
いずれも、花が付き物である。
季節は目に見えないので、人の姿を借りる。
そして、その姿には印が要る。
春なら花、夏なら穀物、秋なら葡萄、冬なら火。
決まった組み合わせがある。
残る二点では、春が風景として描かれる。
薄い墨の山と木立、そして緑の衣の人物である。
つまり、擬人化する方法と、季節の景色を描く方法がある。
前者はヨーロッパの三点、後者は東アジアの二点だった。
九点だけで決めつけることはできない。
だが、分かれ方はきれいだった。
そして東アジアの一点では、四季が四枚の絵に分かれていた。
その四枚が、いまは三つの国に散っている。
館は、その行方まで記録している。
記録は、水の湧き方を書かない
最後に、記録の欄を確かめておきたい。
九点の記録に、水量や湧き方を書く欄はない。
書かれるのは、材と寸法と番号と出所である。
泉の写真でも、水は写っていない。
写っているのは、水を汲むための建物である。
つまり、泉という語が指すのは水そのものではない。
水の出る場所と、そこに作られた装置である。
素描の噴水も、装置の絵だった。
石の水盤と、彫刻と、二筋の水。
水は細い線で示されるだけである。
前に滝や川を扱った回では、水そのものが主題だった。
そこでは、白い泡や斜めの線が数えられた。
泉では、水はほとんど描かれない。
代わりに、石の造作が細かく描かれる。
同じ水でも、扱いがまったく違う。
流れる水と、湧く水。
湧く水は、地面から出る一点でしかない。
その一点を、建物と彫刻が囲んでいる。
九点のうち三点が、その構造を示していた。
そして三点とも、水より石のほうが大きく描かれていた。
素描では、水盤と彫刻が画面を占める。
写真では、屋根と壁が画面を占める。
銅版画では、石の門らしい構築物が左端にある。
水は、そのどこかから細く出ているだけである。
つまり泉の絵は、建築の絵に近い。
前に扱った窓や柱や階段と、同じ仲間である。
人が作った構造物が主題になっている。
そして、その構造物は水のために作られた。
用途が形を決めている点も、これまでと同じである。
汲むための高さ、受けるための盤、日を避けるための屋根。
九点の三点に、その工夫が見えた。
そして、その三点はいずれも人の手が加わった水である。
自然に湧く泉そのものを描いた作品は、九点に一つもなかった。
湧く場所を見つけたら、人はそこに石を積む。
積まなければ、水は土に吸われてしまう。
つまり泉の絵とは、人が水を留めた場所の絵である。
前に橋や道を扱った回でも、同じ話をした。
自然の条件に、人が形を与える。
その形が、絵の主題になる。
今回数えたのは、外れの多さと、花の有無と、組物の欠けである。
外れは六点、花は五点、四季の組は三点。
いずれも、画像と記録を見れば数え直せる。
そして外れの多さは、語の性質から来ていた。
英語で泉と春が同じ語であること。
その一点を説明すれば、九点の並びは理解できる。
泉と春が同じ語であること。
それだけで、六点の外れが説明できる。
そして、その六点は思わぬ収穫でもあった。
磁器の浮き彫り、磁器の立像、金貨、下絵、そして二点の絵。
いずれも、泉の回でなければ触れなかった作品である。
とくに金貨は、この連載で初めて扱う種類だった。
直径2.9センチの金の円盤に、肖像と紋章と文が刻まれている。
その小ささと、情報の密度が印象に残った。










