美術史・技法

色は、いつ版に移ったか——鳥居派の初期役者絵

漆のような黒

次の段階に進みたい。

重荷彦七に扮する大谷鬼次
鳥居清倍《重荷彦七に扮する大谷鬼次》1730年ごろ。木版摺(漆絵)、紙に墨と色。縦33.3センチ、横15.6センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《重荷彦七に扮する大谷鬼次》メトロポリタン美術館蔵

細長い紙になった。縦33.3センチ、横15.6センチ。

先ほどの大判とは、面積で三分の一以下である。

男が右を向いて立ち、荷車の車輪を背にしている。

上に梅の枝が伸び、白い花が点々と咲く。

衣は黒く、そこに艶がある。

墨に膠や漆を混ぜて盛り上げる技法で、漆絵と呼ばれる。

所蔵館の記録も、技法欄に漆絵と書いている。

車輪には黄と赤が入り、輪の内側が放射状に塗り分けられる。

黒い面が光を反射し、他の色と質感が違って見える。

漆絵は、どう作るのか

技法にも触れておきたい。

漆絵という名だが、実際に漆を使ったかどうかは作例によって違う。

墨に膠を多く混ぜ、艶を出す方法が一般的だったとされる。

盛り上がった黒は、光の当たり方で見え方が変わる。

つまり、平らな紙の上に質感の差を作る工夫である。

色を増やさずに、画面の中の対比を強くできる。

版木を増やさない分、原価も抑えられる。

技法の選択は、見た目と費用の両方で決まっている。

版元の名が、絵の中にある

この一点の下部に、枠で囲まれた文字がある。

版元の名と所在を示す印である。

同じ形式の印は、次の一点にも入っている。

侍に扮する二代目市川團十郎
鳥居清倍《侍に扮する二代目市川團十郎》1735年ごろ。木版摺(漆絵)、紙に墨と色。縦31.1センチ、横14.9センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《侍に扮する二代目市川團十郎》メトロポリタン美術館蔵

黄色い幕が上部を横切る。

その下に、四角い紋の付いた衣の男が座る。

手前に子どもが二人、市松模様と菊の柄の衣で立つ。

黒い部分は、ここでも艶がある。

画面の下に、枠で囲んだ文字が二つ並ぶ。

版元の名と、絵師の署名である。

つまり、誰が出して誰が描いたかが、絵の中に書かれている。

黄色が、面として入る

もう一点、同じ時期を見たい。

1735年以降の二代目市川團十郎
鳥居清倍《1735年以降の二代目市川團十郎》1736年5月。木版摺、紙に墨と色。縦28.6センチ、横14.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《1735年以降の二代目市川團十郎》メトロポリタン美術館蔵

制作年が「1736年5月」と月まで記録されている。

役者の名と演目から、上演の月が特定できるためである。

画面には男が二人。手前の一人が刀を構える。

背後に鳳凰らしき飾りがあり、雲が渦を巻く。

黄色が、衣と雲の面に広く入っている。

赤はほとんど使われていない。

色数は二、三色である。

色が、版で摺られる

次の段階が、紅摺絵である。

やつし五郎の市村万蔵とやつし少将の瀬川菊次郎
鳥居清倍《やつし五郎の市村万蔵とやつし少将の瀬川菊次郎》1745年ごろ。木版摺、紙に墨と色。縦31.4センチ、横14.9センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《やつし五郎の市村万蔵とやつし少将の瀬川菊次郎》メトロポリタン美術館蔵

緑と紅が、面としてはっきり入っている。

背景に鶴と松があり、松の葉が緑に染まる。

手前の二人は、緑の衣と紅の帯である。

色の境目が、輪郭線とよく合っている。

にじみもなく、面の内側で均一である。

版で色を摺ったと考えるのが自然である。

ただし所蔵館の記録は、ここでも技法を書き分けていない。

紅摺絵という区分は、記録の語ではなく、画面から読める性質である。

二色から、少しずつ増える

同じ形式の一点を、もう一つ見たい。

平野屋徳兵衛に扮する市村亀蔵
鳥居清倍《平野屋徳兵衛に扮する市村亀蔵》1748年ごろ。木版摺、紙に墨と色。縦30.6センチ、横14.3センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《平野屋徳兵衛に扮する市村亀蔵》メトロポリタン美術館蔵

淡い黄土と墨が中心である。

上部に松と藤が垂れ、下に二人が立つ。

一人は扇を持ち、もう一人は文らしきものを手にする。

色は控えめで、面の数も少ない。

同じ紅摺絵でも、使う色数には幅がある。

緑と黒で、格子の前に立つ

最後に、系列の終わりに近い一点を見たい。

門口に立つ女に扮する尾上菊五郎
鳥居清倍《門口に立つ女に扮する尾上菊五郎》1755年ごろ。木版摺、紙に墨と色。縦28.9センチ、横13.3センチ。メトロポリタン美術館蔵。初代鳥居清倍《門口に立つ女に扮する尾上菊五郎》メトロポリタン美術館蔵

緑の格子が画面の右を占める。

その前に、女方が一人立つ。

着物は黒と白の柄で、帯に緑が入る。

右上に文字が三行、縦に書かれている。

役名と役者名、そして詞書らしき文である。

色は緑と黒の二系統に絞られている。

この段階でも、まだ色数は限られている。

ここから五年ほどで、多色摺の錦絵が始まる。

なぜ役者絵が売れたのか

売れた理由も確かめておきたい。

芝居は、江戸の大きな娯楽だった。

上演は月ごとに替わり、その都度、新しい配役が組まれる。

役者絵は、その月の舞台と結びついた商品である。

見た人は記念に買い、見ていない人は評判を確かめる。

つまり、いまで言う公演の告知と記念品を兼ねている。

だから制作年が月まで分かる作例が残る。

先に見た1736年5月の一点が、その例である。

上演の記録と絵を突き合わせれば、月が決まる。

版画が時事の商品だったことの、はっきりした証拠である。

舞台を、どこまで写しているのか

記録としての性格も確かめておきたい。

これらの絵は、舞台の一場面を写したように見える。

しかし背景を見ると、鶴と松、梅の枝、渦を巻く雲が並ぶ。

いずれも実際の舞台装置というより、めでたい取り合わせである。

つまり画面は、舞台の写生ではない。

役者と役柄を示し、その周りを飾りで埋めている。

見た人が舞台を思い出すための絵であって、記録ではない。

「記録」という言葉の危うさは、別のコラムでも扱った。

判型は、小さくなっていった

寸法を並べ直すと、傾向が見える。

1705年の舟の絵は横51.8センチ。

1713年の役者絵は縦53.3センチ。

1730年以降は、縦30センチ前後・横15センチ前後に集まる。

つまり大きな紙から、細長い小さな紙へ移っている。

色を版で重ねるには、紙が小さいほうが扱いやすい。

版木の数が増えるほど、位置合わせの誤差が響くからである。

判型と技術は、無関係ではない。

判型が絵の中身を変える話は、別のコラムでも扱った。