画家を知る

遠近法を、浮世絵に入れる——歌川豊春の浮絵

縦に細長い紙で

四枚目は、極端な形をしている。

恋文を読む若衆を見下ろす美人
歌川豊春《恋文を読む若衆を見下ろす美人》1771年ごろ。木版、紙本着色。柱絵。縦66.7センチ、横10.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《恋文を読む若衆を見下ろす美人》メトロポリタン美術館蔵

縦66.7センチ、横10.8センチ。

縦横の比は、六対一を超える。

柱絵と呼ばれる形式である。

家の柱に貼るために作られた、と伝えられる。

画面の上部に、女性が立つ。身を乗り出して、下を見ている。

その視線の先、画面の下寄りに、若い男が座って文を読む。

上と下、二人のあいだに大きな距離がある。

この縦長の紙が、そのまま距離になっている。

ここに消失点はない。使いようがない。

代わりに、上下の隔たりが空間を作っている。

同じ絵師が、まったく別の方法で奥行きを扱っている。

雄鶏と雌鶏と雛
歌川豊春《雄鶏と雌鶏と雛》1770年ごろ。木版、紙本着色。縦38.4センチ、横13.0センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《雄鶏と雌鶏と雛》メトロポリタン美術館蔵

五枚目も縦長である。

台の上に雄鶏が立ち、羽と尾を大きく広げる。

台の下では、雌鶏と数羽の雛が地面をつついている。

上の一羽が黒く濃く、下の群れは淡い。

濃淡の差だけで、上下の距離が付いている。

これも遠近法ではない。日本の花鳥画が使ってきた方法である。

筆で描く仕事

最後に、版画ではないものを見ておきたい。

正月の母と子ども
歌川豊春《正月の母と子ども》18世紀。掛軸、絹本着色。縦103.5センチ、横31.8センチ。メトロポリタン美術館蔵。歌川豊春《正月の母と子ども》メトロポリタン美術館蔵

掛軸である。絹に筆で描かれている。

母が幼い子を抱き、もう一人の子が寄り添う。

母の着物には、細かい模様が描き込まれている。

背景は暗く、上方に松の枝が見える。

正月の情景とされる。

版画で名を知られた絵師が、筆でも仕事をしていた。

肉筆と版下絵は、同じ人の中で両立していた。

版画は分業である。絵師が下絵を描き、彫師が彫り、摺師が摺る。

一方、掛軸は最初から最後まで絵師の手で仕上がる。

同じ人の中に、二つの作り方が共存している。

掛軸に、遠近法はない

この掛軸には、消失点がない。

背景は暗く、空間の奥行きはほとんど示されない。

人物は、平らな面の上に置かれている。

着物の模様が細かく描かれ、そこに目が留まる。

つまり見どころは、空間ではなく衣装と表情にある。

これは肉筆の美人画が長く続けてきた形式である。

浮絵で消失点を使った同じ人が、ここでは使わない。

技法は主題に従属している、と言ってよい。

そう考えると、豊春にとって遠近法は思想ではなかった。

世界の見え方を変える発明としてではなく、
道具の一つとして扱われている。

西洋では、遠近法は世界観と結びついて語られてきた。

視点を一つに定め、世界を測る方法として。

江戸の絵師は、そこまで背負わなかった。

必要なところで使い、要らないところでは置いた。

この軽さは、弱さでもあり、強さでもある。

柱絵という制約

柱絵の形についても、もう少し書いておきたい。

縦横比が六対一を超える紙は、扱いが難しい。

人を一人立たせるだけで、画面がふさがる。

風景を入れれば、細長い帯にしかならない。

だから柱絵の絵師は、必ず工夫を強いられる。

豊春の一枚は、上下に人を離すという解き方をした。

見る人の目は、上から下へ動かざるを得ない。

絵を見る時間が、紙の形によって決められている。

横長の浮絵とは、まったく逆の設計である。

浮絵では、目は奥へ引かれていく。

柱絵では、目は縦に走らされる。

同じ絵師が、紙の形に応じて視線の道筋を変えている。

制約が、かえって工夫を呼ぶ例だと言える。

六点を並べて

最後に、六点をもう一度並べてみたい。

横長の浮絵が二枚。俯瞰の名所図が一枚。

細長い柱絵が二枚。絹に描いた掛軸が一枚。

紙の形も、技法も、空間の作り方もばらばらである。

一人の絵師の仕事として見ると、幅が広い。

しかもこれは、当サイトが所蔵する分だけの話である。

実際の仕事は、もっと多様だっただろう。

派の始まりとして

豊春の名は、作品よりも系譜で知られている面がある。

歌川派は、江戸後期にもっとも大きな流派になった。

豊国が役者絵で、豊広が風景で、それぞれ道を開いた。

その先に広重がいて、
国芳がいる。

広重の風景版画には、しばしば強い奥行きがある。

手前に大きく物を置き、奥へ一気に引く構図である。

その扱いの元をたどると、浮絵の実験に行き着く、という見方がある。

ただし、豊春から広重へ直線的に受け渡されたと断じることはできない。

あいだには複数の絵師と、数十年の時間がある。

言えるのは、遠近法が江戸の絵の道具箱に入った、ということだ。

その道具を、比較的早い時期に、規則として使いこなした人がいた。

道具が増えるということ

浮絵を見ていて思うのは、道具の増え方である。

新しい技法が入っても、古い技法は消えなかった。

俯瞰も、濃淡による距離も、柱絵の上下も、そのまま残った。

そこへ消失点が一つ加わっただけである。

しかもそれは、劇場の通りや橋のような主題で使われた。

まっすぐな道があり、両側に建物が並ぶ場面。

つまり、遠近法が効く場面が選ばれている。

道具が増えれば、使いどころも選べるようになる。

豊春の六点を並べると、その選択がよく見える。

浮絵が二枚、俯瞰が一枚、縦長が二枚、肉筆が一枚。

一人の絵師の中に、これだけの空間の作り方がある。

のちに西洋の画家たちが浮世絵を見て驚いたのは、
別のコラムで書いたとおりである。

その浮世絵の側も、かつて西洋の絵を見て驚いていた。

驚きは、たいてい往復する。

芝居町の夜の絵で、道が奥へ吸い込まれていく。

その一点は、遠い場所から届いた規則の跡である。

そして同時に、江戸の夜の町の記録でもある。

規則は借り物でも、描かれた町は借り物ではない。

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