作品を知る

風は、なびくものを借りて吹く——湖龍斎・普明・金振宇ほか九点

風の題を持つ絵を九点集めて、なびく係を数えた。帆と旗、凧の糸、そよぐ竹に、葉を飛ばす竹。なびくもので風を見せる絵が六点、題の中にだけ風の吹く絵が一点、吹かない風流の風が二点。幹の傾きに何十年の風を刻んだ松まで、見えない風の描き方を見くらべる。

冬(風流四季の遊びより)
磯田湖龍斎《冬(風流四季の遊びより)》メトロポリタン美術館蔵

風の絵に、風が吹いていない

雪の日の縁側である。

長い裾の女が一人、板の上に立っている。

うつむいて、足元のほうへ目を落としている。

背後の格子窓の内側から、もう一人と、幼い顔がのぞいている。

窓の下の低い茂みには、白い雪が積もる。

縁の板の端にも、雪が残っている。

板の上には、細長い箱のようなものが一つ置かれている。

右上の枠には、叢書の名と、冬の一字が刷り込まれている。

左上の雲形の枠には、仮名の歌が三行ある。

動いているものは、何一つない。

冬(風流四季の遊びより)
磯田湖龍斎《冬(風流四季の遊びより)》1770年から72年ごろ。館の記録では、多色摺の錦絵、紙に墨と彩色。26.4×19.4センチ。番号はJP885。メトロポリタン美術館蔵。磯田湖龍斎《冬(風流四季の遊びより)》メトロポリタン美術館蔵

さて、この一枚の題には、風の字が入っている。

叢書の名は《風流四季の遊び》という。

だが、画面に風は吹いていない。

雪は積もったままで、袖も裾も揺れていない。

この風が、吹く風ではないからである。

風流の風、つまり趣きや当世ぶりを言うほうの風である。

館の記録では、四季の遊びを当世の姿で見せる揃い物の、冬にあたる。

記録そのものは短い。

作者と、年代と、揃い物の名と、技法と、寸法と、出所だけである。

その寸法の欄に、縦の中判、と書いてある。

26.4×19.4センチ。

手のひらより少し大きい紙で、机の上に置いて眺める大きさだ。

雪は、白い絵の具で塗られてはいない。

紙の白をそのまま残し、輪郭の線だけで積もりを示している。

摺らない、という手つきで雪を作っている。

窓の内と外で、白の残し方も変えてある。

出所の欄には、1914年の寄贈とある。

収集家の遺族から館へ渡った一枚である。

分類の札には、子ども、女、木、冬、雪の五語が並ぶ。

風の語は、札のどこにもない。

記録の中の風の字を頼りに図版を集めると、この手の風がいくらでも混ざってくる。

ギリシア風、アラビア風、アルザス風。

様式を示す風の付いた候補が、今回も次々に挙がってきた。

一つの字が複数の意味に割れる事情は、鏡の語が六つに割れた回と同じである。

そこで、吹くほうの風だけを選び直した。

とはいえ、この一枚も無関係ではない。

雪の日に風が吹いていないことは、画面が証言している。

積もった雪は、風があれば形を崩す。

軒の下の茂みに白がのったままなのは、風の吹かなかった証拠でもある。

風の絵に風が見えないのと、無風の絵に風がないのは、別のことだ。

前者は描き方の話で、後者は天気の話である。

九点を数えるあいだ、この二つは何度も入れ替わる。

もっとも、この一枚は最後にもう一度出てくる。

風の字の話は、九点を数えたあとのほうが面白いからである。

ここで、問いを立てたい。

風は、どうやって描くのか。

風そのものは透明で、形がない。

描けるのは、風に動かされたものだけである。

帆、旗、枝、葉、糸。

何かがなびいて、はじめて風は絵になる。

九点を並べて、なびく係を数えてみる。

帆と旗は、風の道具である

風を受けるために作られた道具から始める。

爽やかな風を受けるオランダ船
ヤーコプ・ベレフォイスの周辺《爽やかな風を受けるオランダ船》1650年代か。館の記録では、布に油彩。122.5×147.8センチ。番号は1947.3.1。ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵。ヤーコプ・ベレフォイスの周辺《爽やかな風を受けるオランダ船》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

波の立つ海に、帆船が何隻も浮かんでいる。

大きな船の帆は、風をはらんで丸くふくらむ。

マストの先では、細長い旗が横へ流れる。

波がしらには、白い泡が立つ。

手前の小さな帆船は、船体をわずかに傾けている。

風は帆を押し、帆は船を傾ける。

傾きもまた、風の証拠である。

空の雲も、同じ方向へ動いているように見える。

題は《爽やかな風を受けるオランダ船》。

嵐ではない。

船乗りにとってちょうどよい、仕事のはかどる風である。

帆は、風を受けるための布である。

旗は、風向きを知らせるための布である。

だから海の絵は、風の絵になりやすい。

布が風を形に変えることは、布を動きの道具として数えた回でも見た。

帆のふくらみと旗の流れる向きで、見る人は風の強さと向きを読める。

十七世紀のオランダでは、こうした海景画が数多く描かれた。

この絵の作者名には、周辺、という言葉がつく。

ベレフォイスという画家の作風に近いが、本人とは断定できないという意味である。

風だけでなく、作者もまた、確かな形を残さないことがある。

海の上には、木も、旗竿の立つ家もない。

なびく係を、船がまとめて引き受けている。

帆と旗を欠いた海の絵から風を読むのは、ずっと難しいはずである。

陸の上では、風の道具はこうなる。

凧揚げ
鈴木春信《凧揚げ》1766年ごろ。館の記録では、多色摺の木版。27.3×20.6センチ。番号はJP862。メトロポリタン美術館蔵。鈴木春信《凧揚げ》メトロポリタン美術館蔵

川辺で、若者たちが凧を揚げている。

凧は画面の左上に小さく浮かび、長い尾を垂らす。

一本の糸が、凧から若者の手まで斜めに張られている。

足元には、川の流れが渦を巻く線で描かれている。

ここに、面白い対比がある。

水の流れは、線で直接描けるのである。

だが風の流れは、線で描かれていない。

同じ流れる透明なものなのに、水は形をもらい、風はもらえない。

風がもらえたのは、凧と糸だけである。

この糸の張りが、風の証拠である。

風がなければ、凧は落ち、糸はたるむ。

ぴんと張った斜めの線一本で、見えない風が画面に入る。

頭上の柳の枝は、しだれたまま大きくは乱れていない。

強風ではなく、凧がちょうど上がる程度の風だと分かる。

腰をかがめて見上げる男、糸を持つ若者、後ろで見守る連れ。

三人の視線が、みな空の一点に集まっている。

風は、見えないのに、人の目を引っぱっている。

この一枚の記録には、主題を示す整理の札がついている。

子ども、男、女、凧、と語が並ぶ。

風の字は、そこにない。

凧を揚げた張本人なのに、目録の欄からは抜け落ちている。

風は、絵の中でも目録の中でも透明である。