入れない部屋があった——カウフマン、モリゾ、カサットの条件
入れない部屋があった
十九世紀まで、画家になるための正規の課程には、はっきりした関門があった。
裸体を描く教室である。
歴史画——神話や聖書や史実を描く、当時の絵画の最上位の分野——を描くには、人体の構造を知らなければならない。そのための訓練が、生きたモデルを前にした素描だった。
この教室に、女性は入れなかった。
風紀上の理由である。若い女性が裸のモデルと同じ部屋にいることは、当時の常識では認められなかった。
結果として何が起きるか。歴史画が描けない。歴史画が描けなければ、画家としての最上位の評価には届かない。
かわりに勧められたのが、静物、花、肖像、そして家庭の風俗である。「女性に向いた」分野とされた。
向いていたのではない。それ以外が閉じていた。
美術学校の課程がどう組まれていたかは、素描を扱った別のコラムでも触れている。形の把握が先、色はあと。その「形の把握」の核心部分が、制度的に閉ざされていた。
壁に掛かった二人
象徴的な例がある。
1768年、ロンドンで王立美術院が設立された。創立会員は34人。そのうち二人が女性だった。
アンゲリカ・カウフマンとメアリー・モーザーである。
ところが、この二人は裸体教室に出席できない。会員でありながら、会員の中心的な活動から外されていた。
創立から数年後に描かれた会員たちの集合肖像画がある。男性会員が裸のモデルを囲んで議論している場面である。
そこに二人の女性会員は、人としては描かれていない。壁に掛かった肖像画として、画面の隅に登場する。
配慮のつもりだったのだろう。結果として、この絵は当時の状況をこれ以上ないほど正確に記録してしまった。
その後、王立美術院で正会員に選ばれる女性が再び現れるのは1936年である。168年が空いた。
フランスの国立美術学校が女性の入学を認めたのは1897年だった。
つまり、印象派の画家たちが活動していた時期、公的な美術教育の本流はまだ女性に開かれていない。
それでも歴史画を描いた人
制約の中で、例外もあった。

カウフマンは、肖像画も神話画も歴史画も描いた画家である。

《テレマコスの悲嘆》は、まさに当時の序列でいう歴史画である。
ではどうやって人体の勉強をしたのか。父も画家で、幼少期から工房の中で育ったことが大きい。制度の外側にいたからこそ、制度の制限を受けずに済んだ面がある。
例外は、しばしばこういう形で生まれる。制度に入らずに済む条件を、たまたま持っていた人である。
「たしなみ」という罠
もうひとつ、見えにくい壁があった。
十八世紀から十九世紀にかけて、良家の子女が絵を習うことは奨励されていた。水彩、花の写生、刺繍の下絵。
ただしそれは「たしなみ」としてである。結婚前の教養であって、職業ではない。
この扱いは一見寛容だが、実際には厳しい線引きになっている。
同じように絵を描いていても、男性がやれば修業、女性がやれば趣味と見なされる。売ろうとすれば、はしたないと言われる。
だから当時の女性の画家は、二重の説明を強いられた。技術があることと、職業として本気であることの両方を、証明しなければならない。
署名の仕方にも、その痕跡が残っている。名前を頭文字だけにする、姓だけを書く、男性名で発表する。性別を隠す工夫は、絵画に限らず、この時代の各分野で見られる。
なお、これは西洋だけの話ではない。同じ時期の日本でも、女性の絵師は家業の中に位置づけられることが多く、独立した名前で残りにくかった。
行ける場所が、主題を決める
もうひとつの制約は、移動である。
十九世紀のヨーロッパで、若い女性がひとりで街を歩き、酒場や劇場を観察し、屋外に画架を立てることは容易ではなかった。

ベルト・モリゾのこの一枚を見てほしい。場所は自宅の居間である。
黒い喪服のような衣服の母が本を読み、白い部屋着の姉が身体をこちらへ向けている。二人の視線は交わっていない。
黒と白の対比が画面を割り、背後の鏡と花模様のソファが上半分を埋める。
主題は家族である。モデルは身内である。場所は家である。
この絵については、逸話が残っている。完成前にマネが見に来て、手を入れてしまったという。母親の黒い衣服の部分だといわれる。
モリゾ本人は動揺したと伝えられる。善意の助力だったのだろうが、自分の絵が自分の手を離れた形になった。
女性の画家が、男性の同輩や師から「手を入れられる」立場に置かれやすかったことは、この逸話がよく示している。