画家を知る

同じ大きさの紙に、二つの大陸が並ぶ——ジョージ・カトリン

一家を、三人で示す

南米の人びとを描いた画面には、繰り返される型がある。

大人の男が中央に立ち、その左右に女性や子どもが並ぶ。背景は薄く、地面の線だけが引かれる。

一家、あるいは一族を、三人から五人で代表させる型である。北米側の群像にも同じ組み方が出てくる。

人数が増えると、横一列が二列になる。それでも奥行きはほとんど作られない。

正面から並ばせる構図は、比べるためのものである。姿勢や動きよりも、身なりが分かることが優先されている。

チェティボの一家
ジョージ・カトリン《チェティボの一家》1854年から1869年。厚紙に油彩、台紙に貼る。館の記録では、縦45.9センチ、横59.7センチとされる。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ジョージ・カトリン《チェティボの一家》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

九点のうち、最も横幅が小さい一点である。

三人が横に並ぶ。中央の人物は羽根の飾りを頭につけ、弓のようなものを持つ。

左に子ども、右に女性が立つ。背景は淡い水色で、右側にだけ緑の茂みが描かれる。

輪郭はぼかされ、足元の地面が途中で消える。人物を見せることだけが目的の画面である。

三人の肌の色は、赤みの強い茶で塗られている。九点を通して、この色の使い方は変わらない。

顔立ちの描き分けはほとんどない。誰であるかより、どの集団かを示す絵になっている。

型は、便利で、危うい

同じ型を繰り返せば、比べやすくなる。

服の形、髪の結い方、持ち物の違いが、並べたときにすぐ分かる。図鑑のような一覧をつくるには合理的である。

しかし、型に合わせて選ばれた人と物だけが残る。型に入らないものは画面から落ちる。

比べやすさと、取りこぼしは、同じ仕組みから出てくる。この一群はその両方を持っている。

たとえば、季節が分からない。九点のうち雪の場面は一つもない。

たとえば、老いが少ない。子どもと壮年は出てくるが、老人はほとんど画面にいない。

マンダンの衣の写し
ジョージ・カトリン《マンダンの衣の写し》1861年から1869年。厚紙に油彩、台紙に貼る。館の記録では、縦45.8センチ、横60センチとされる。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ジョージ・カトリン《マンダンの衣の写し》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

九点のなかで、これだけが人も風景も描いていない。

画面の中央に、獣皮を広げた形が白く置かれる。縁は不規則に波打つ。

中心に同心円の模様があり、黄と赤の細かい点が輪をつくる。その左右に、鳥や獣らしい小さな図が散る。

題は、写し、と書く。カトリンが作った衣ではなく、誰かが作った衣を描き写した、という意味になる。

写すという仕事

この一枚は、一群の性格をよく示している。

衣の模様には意味がある。誰が着るか、何をした人かが、模様で示されることがある。

その意味を、絵は伝えない。伝えるのは形と色だけである。

写しは記録として役に立つ。ただし、写された側にとって大事なものが写っているとは限らない。

もう一つ気づくことがある。この一枚には、地面も空も描かれていない。

背景がないから、衣がどのくらいの大きさかも分からない。寸法の欄が示すのは、紙の大きさであって衣の大きさではない。

1837年のシカゴの眺め
ジョージ・カトリン《1837年のシカゴの眺め》1861年から1869年。厚紙に油彩、台紙に貼る。館の記録では、縦45.9センチ、横61.4センチとされる。ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵。ジョージ・カトリン《1837年のシカゴの眺め》ナショナル・ギャラリー(ワシントン)蔵

最後の一点は、街を描く。

水色の湖が奥に広がり、その手前に低い建物が並ぶ。二階建てらしい白い建物が二棟、目立つ。

手前は林で、木々の下に人と円錐形の住居が混じる。街と、街の外が、一枚に収まっている。

建物の窓は、点のような筆触で示される。数は正確に描かれていないと思われる。

湖の色は、ほかの八点の空の色とよく似ている。同じ絵具をそのまま使ったように見える。

題に入った年は1837年である。制作年の欄は1861年から1869年だから、二十年以上あとに描いたことになる。

記憶から描くということ

題の年と、制作の年が離れている。

つまりこの画面は、その場で描いた写生ではない。以前の自分の絵か、覚えていることをもとに描き直したことになる。

一群の多くが同じ性格を持つと考えられる。だから寸法がそろい、番号が振られ、束になる。

見たものを持ち帰る絵ではなく、持ち帰ったものを並べ直す絵である。

並べ直すとき、記憶は整理される。整理された分だけ、迷いや例外が落ちる。

だから画面はどれも見やすい。見やすさは、そこで何かが減った印でもある。

明るさが揃うこと

もう一度、九点をまとめて見てみる。

森の一点を除けば、どれも明るい。空は水色か淡い橙で、影は薄い。

日中の、晴れた場面ばかりである。天気が悪い日も、夜も入っていない。

これも一覧の性質である。条件をそろえたほうが、比べやすくなる。

天気を絵の主題にした例と比べると、違いがはっきりする。日本の版画には、雨や雪そのものを摺りで示した仕事がある。

束としての見方

この九点を、一点ずつの作品として見ると物足りない。

筆は速く、細部は省かれ、色は明るく単純である。人の顔はほとんど描き分けられていない。

だが束として見ると、意図がはっきりする。同じ形式で、広い範囲を、一覧にしようとしている。

十九世紀には、こうした一覧を作る試みが各地にあった。標本箱に近い発想である。

絵は、その箱に入る一枚として作られた。作品としてより、項目として作られている。

同じ作り手を別の角度から見た記事もある。題に何を書くかという観点からは、題に、距離が書いてある——ジョージ・カトリンが近い。

連作の並べ方については、題に、日付まで書いてある——ジョージ・カトリンのラ・サール連作でも書いた。

誰の一覧か

一覧は、作った人の関心の形をしている。

この束を作ったのは、外から来た画家である。並べる順も、何を入れるかも、その人が決めている。

描かれた人びとは、いまも各地で暮らしている。名も、綴りも、自分たちで決め直してきた。

だから、この九枚を見るときは二つのことを同時に持っていたい。ここに残った形と色は貴重である。そして、これは誰かの目を通った一覧である。

記録の言葉そのものを疑う視点は、「記録」という言葉を、疑ってみる——ジョージ・カトリンの肖像でも扱った。同じ紙の大きさが九枚続くという事実から、そこまで戻ることができる。

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