銀灰色は、どこから来たのか——カミーユ・コローの風景
習作と出品作の関係
この二重生活は、当時としては珍しくない。
屋外の習作は、素材の採取である。光の見え方、木の形、雲の動き。それを覚えておくために描く。
アトリエでは、その蓄積を使って構図を組み立てる。実在の場所を再現するのではなく、要素を配置し直す。
つまり習作は下ごしらえで、出品作が料理だった。
十九世紀の後半になると、この関係が逆転する。屋外で描いたものが、そのまま完成作として認められるようになる。
その転換の中心にいたのが印象派の画家たちである。モネの連作については別のコラムで扱っている。
コローはその一世代前にいて、両方を持っていた。
そして、両方を持っていたことが、後の世代に効いた。
若い画家たちが彼のアトリエを訪れ、屋外の習作を見せてもらっている。ピサロは自分をコローの弟子だと名乗った時期がある。
サロンで認められた大家が、屋外の速い絵も描いている——という事実そのものが、次の世代の許可証になった。
ピサロがそこから何を引き継いだかは、別のコラムで扱っている。
サロンという場所
出品作の話が出たので、サロンについても触れておきたい。
サロンは、フランスの官設展覧会である。数年に一度、あるいは毎年開かれ、数千点が並んだ。
画家にとっては、ここに入選し、批評で言及されることが唯一の出世の道だった。
審査があり、落選もある。壁の高い位置に掛けられれば、事実上見てもらえない。
そういう場所に出す絵は、当然ながら遠くから目立つ必要がある。大きく、暗く、はっきりした構図が有利になる。
《フォンテーヌブローの森》が2.4メートルあるのは、そのためだ。
一方、イタリアの習作は27センチである。九分の一の幅しかない。
同じ画家が、九倍違う寸法の絵を並行して作っていた。用途が違うからだ。
若いころの絵が、後から評価された
面白いのは、後世の評価である。
コローの生前、彼を有名にしたのはサロンの大作と、晩年の詩的な風景だった。
ところが二十世紀に入ると、評価の中心がイタリアの小さな習作へ移る。
理由は分かりやすい。習作のほうが、二十世紀の目に「新しく」見えたからだ。
面を塊として置く描き方、輪郭を作らない態度、速さ。これらはセザンヌ以降の絵画に通じる。
セザンヌが面をどう積んだかは別のコラムで扱っている。
もっとも、コロー本人はこれを完成作と考えていない。私たちが評価しているのは、彼が「まだ絵ではない」と思っていたもののほうである。
このずれは、覚えておいたほうがよい。
同じことは、素描の評価にも起きている。捨てられるはずの紙が、いま美術館の収蔵品になっている。別のコラムで扱った話である。
作り手が「完成」と考えたものと、後世が価値を認めるものは、しばしば一致しない。
この不一致自体が、美術史の面白さのひとつだと思う。

フランス国内でも、同じ方法で習作を採り続けた。
橋のアーチ、対岸の建物、水面。要素は少なく、筆数はさらに少ない。
こうした小品が、彼の生涯を通じて大量に残っている。
数の多さには、理由がある。
売らないからだ。
出品作は売れて手を離れるが、習作は手元に残る。しかも小さいので場所を取らない。
死後、アトリエに残された作品が一括して売り立てられた。その中に大量の習作が含まれていた。
いま各国の美術館にコローの小品が散らばっているのは、この売り立てが出発点になっている。
画家の死後に何が残るかは、生前どこまで売れたかで決まる。売れなかったものほど、まとまって残る。
皮肉な話だが、後世の評価にとってはむしろ幸運だった。
銀灰色は、いつ始まったのか
晩年の様式に移りたい。

同じ画家である。三十五年後の作品だ。
まず、輪郭が無い。
木の葉は、細かい点と刷毛の跡でできている。一枚ずつの葉ではなく、葉の集合が霧のような塊として置かれている。
幹は細く、上へ向かって溶ける。枝先はほとんど空気と区別がつかない。
色は、灰、緑がかった銀、淡い黄土。強い色はどこにもない。
例外がひとつ。舟に坐る人物の帽子だけが、赤い。
画面全体が抑えられているぶん、この小さな赤が異様に効く。
「思い出」という題名
題名にも注目したい。「イタリアの湖の思い出」である。
思い出——スーヴニールという語を、コローは晩年の作品名に繰り返し使っている。
特定の場所の記録ではない、という宣言である。
実際、これらの画面に描かれた風景は、どこか特定の土地には対応しない。イタリアで見たものの記憶が、フランスのアトリエで再構成されている。
若いころの習作が「その日の、その場所の光」だったのに対し、晩年の作品は「どこでもない場所の、時刻の無い光」になっている。
正反対と言ってよい。